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黒い塊が近付いてくる。いえ、そう思うくらい、黒い色彩をまとった男が、私たちのほうへと近付いてくるのです!
男は村ではまず見かけない洋風の背広を着こなし、颯爽とした足取りで山道を登ってきます。黒い背広に黒いソフト帽。さらには陽が陰ってきた薄暗さも加わり、その姿はのっぺりとした一つの影に見えました。
……いいえ。違うわ。私ははっと息を呑みました。男は怖ろしいほど美しい切れ長の目を持っていたの。こちらの心身がざわめき出すような、奇妙に強い力を発している。それでいて近寄りがたい冷たさが全身を覆っているのよ……私はつい後じさってしまったわ。
男は私たちに近付き、ソフト帽を取ったわ。淡く笑うと、またこう言ったの。
「薊」
彼が名を呼べば呼ぶほど、私の薊様が吸い取られてしまいそう! 思わず、私は薊様の袖を握ってしまったわ。
ところが。
薊様はぱっと私の手を払うと、嬉しそうに叫んだのよ。
「兄さん」
兄さん? 私は驚愕のあまり、声も出なかったわ。
薊様が男のほうへ駆け寄ります。
「兄さん、来てくれたんだね。仕事のほうは」
彼の言葉に、男が印象から受ける冷たさとは釣り合わない優しい笑顔を見せ、答えます。
「弟の妻になる人にお会いすることは、何を置いても優先されるべきだろう。本家に伺ったら、ここに君たちが来ていると聞いてね」
言いながら男が私を見たの。
今初めて、私という存在に気付いたかのように。
「浅田椚(くぬぎ)と申します。愚弟との婚約が整った旨、連絡をいただいていたにも関わらずご挨拶が遅れた無礼をお許しください。今日は仕事にようやく目処が立ちましたので、取るものも取り敢えず、こうしてご挨拶にはせ参じた次第です」
すらすらと淀みない言葉が語られています。けれどそこに一切の温もりが感じられなかったのは……この場所が寒いから?
東京に、ただ一人の家族である兄がいるとは聞いておりました。大手製薬会社の研究者だとか。帝大を首席で卒業したほど優秀な方だとか……
でも。私はなぜかぶるりと震え上がってしまったの。
何かが近付いてくる。その予感が、冷たく私の全身をざわめかせたから。
すると、二人は私に背を向け、並んで歩き出してしまったの。私は追いかけるように、二人の後ろをあわてて付いて行きました。
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