向う岸の幸せ

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明子、と名前を呼ばれた気がした。身じろぎをすると、ちゃぷちゃぷと波打った液体が、私の体を柔らかく打つ。目を開けると飛び込んできたのは、オレンジ色の灯りに染められている白い天井。湯船に浸かったままうとうととしてしまった目には優しく、緩やかに意識が覚醒していく。  いつの間に眠ってしまったんだろう。思い出すのは難しいけれど、胸のあたりまでの湯船は生温かいから、随分と眠っていたことに違いない。  眠っていた。ああ、そうか。だから私の名前が呼ばれたのか。いいや、夢の中での出来事でしか、それはあり得ないことだから、当然のことなんだ。  だって、聞こえてきたのは「行ってきます」と言ったきり帰ってくることの無かったあの人の声だったから。もう二度と会うことはできないと思っていた彼の声だったから。  未だに耳に残る夢の声を噛みしめるように反芻する。明子、明子、と私の名前を呼ぶ彼の声は、いつもと変わらない優しいもので、思い出すだけでも私の心を幸福感でいっぱいに満たしてくれる。  でも、それは一時的なもの。透明な湯船に赤い液体を一滴落としたとき、すぐに広がって透明に溶けてしまうのと似ている。そんな風にあっという間に私の胸の中を支配する悲しみに溶けて消えてしまうのだ。  できることなら、夢の続きを見ていたかったな、と思うとさっきまでの幸せは胸の外から抜け出して、湯船の中に溶けだしてしまった。 「明子」  と、再び声がして、溶けかけた温かい思いが、再び私の胸に注がれた。ごうごうとたがの外れたような轟音を鳴らす壊れかけた換気扇の喚きよりも、いくつもの壁を隔てた向うから聞こえてくる彼の声の方が、はっきりと私の耳に届いた。  まだ、夢の中にいるのかな。でも、夢の中にいるようなかすみがかった視界でもなく、独特の浮遊感もない。それなら……まさか……。  心の奥底に閉じ込めていた希望と期待が溢れだして、私を突き動かす。湯船から出て、生温かい液体がぬるぬると体にまとわりついているのも拭わずに、タオルを一枚巻いただけでバスルームを飛び出す。  思っていたよりも随分と長くお風呂に浸かっていたらしく、電気を付けていないワンルームは真っ暗だった。すぐに玄関の方に目を向けるが、何も見えない。でも、誰かが立っている気配がそこにはあった。
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