壱、平成二十六年

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 アパートの階段を上がって部屋に入った瞬間、私を襲ったもの。  それは、錆びた鉄のような異臭と、圧倒的にぶちまけられた紅色だった。とにかく部屋中が、鮮烈に汚れていた。  一体何事かと思った。奇妙な三角関係のゴタゴタの中にいるとはいえ、私の送っている日常は平和そのものだ。まさかそれが血の匂いと血の色だなんて、瞬間的に理解できるはずがない。それらはそれほど圧倒的な質量だった。  私は、床に視線をやる。  さっきまで洋子さんだったモノが転がっている。紅の発信源だ。首筋あたりを切られたのだろうが、血の量が多すぎて傷口が確認出来ない有様だった。  振り返るといつの間にか翔太は真後ろにいて、怯えているとも責めているともとれる、見たことないような視線を私に向けていた。  彼が返り血を浴びている様子は全く無かった。それなのに右手には、真赤な包丁。もうわけがわからない。 「……何なの、コレ」  少しでも私の中に冷静さがあれば、何が起こったのかある程度は理解出来ただろう。しかし、想像をはるかに超えた目の前の惨劇に、私の頭は拒否反応を起こしていた。わからない。なにもかもわからなかった。  翔太は、私の目を真正面から見返してきた。  怖い。いつも何を考えているのか丸わかりの翔太の顔から、一切の感情が無くなっていた。  そんな翔太の口が、動く。 「……美咲」  彼の声はしわがれていた。あまりに普段の声色からかけ離れていたために、私は、この部屋にもう一人誰かがいるのではないかとさえ思ってしまった。 「……なに?」  私は、顔がこわばっているのを自覚しつつも、出来るだけ優しい口調になるように気を付けながら言葉を返した。 「美咲」  目の前の男は、もう一度私の名を呼ぶ。  そして、言った。 「今から、洋子を棄てに行く。手伝え」
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