壱、平成二十六年

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 耳を疑った。  何かの聞き違いだと思った。というか、そうであって欲しかった。 「え……」  何を言ってるの?  言葉は喉につかえて、まるで出てこない。 「毛布でこいつの体をくるんで、オレの車で運ぶ。物音は立てるなよ」 「え、待って。待って!」  翔太は本気で、私に死体遺棄の片棒を担がせようとしている。そう思った私はたまらず、彼の肩をつかんだ。そして、あくまで声を潜めながら言う。 「洋子さんを捨てる?今から?何のために?」 「決まってんだろ?洋子の死体がここにあったら、オレが殺したって疑われるだろうが」 「バカ言わないでよ。そんな事して逃げ切れると思ってんの?」 「逃げ切るんだよ。何としてもな」 「無理に決まってるじゃない!この部屋どうするのよ、こんなに血だらけなのに。まさか逃げる前にキレイに拭き掃除するとでも言う訳?時間がいくらあっても足りないじゃない!」 「こいつの死体さえなきゃ時間稼げるだろ。その間に少しでも逃げるんだよ」  この男は、自分が何を言っているのか本当に分かっているのだろうか。終始無表情で抑揚もない口調は、私を不安にさせるばかりだった。 「……ねえ、お願いだから警察行こ?何があったか知らないけど、こうなっちゃった以上もうどうしようもない……」  私は真っ白な頭を振り絞りながら、彼に逃亡を踏みとどまって欲しい旨を伝えようとした。が、私に与えられた説得の時間はものの数秒もなかった。  翔太は、洋子さんの血がべったりついた包丁をこちらに向けてきたのだ。  顔色は変わらない。もはや、完全にどこか壊れているとしか思えなかった。 「そんな事いうなよ……」  翔太は不意に、おねだりするような甘えた声で言ってきた。かすかにいつもの翔太らしさがにじみ出たのが、むしろ恐怖を誘う。 「お前しか頼るヤツいねえんだよ。たのむよ。愛してるんだ」  愛してる。  そんな言葉を、そんなモノ突きつけながら言わないでほしい。  私は、指一本動かせずに翔太を凝視した。翔太も、瞬きさえ忘れたかのようにこちらを凝視している。  私は、選択を迫られたのだ。  死体の遺棄を手伝うか、  それとも、ここで死ぬのかと。
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