三章 狂犬

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「本来なら私が渡すべきなんだがね。なにぶん、坂上さんとは二十年も音信不通でね。蜂巣の葬式が最後かな。リヒトくんは、まだ小さかったが、元気にしてたかな?」 「元気。元気。今、すっごいデカイです。でも、ちょっと怪しいんすよね。ユキさんは気づいてなかったみたいだけど。最初に会ったとき、話が、かみあってなかった。 ああっ、いくらイケメンだからって、ユキさんが男の顔に、まどわされる女だったとは! 僕が守ってあげなくちゃ。あの人、しっかりしてるようで、どっか抜けてるから」 リヒトの着てた、ウッカリしっかりTシャツは、ユキにこそ、ふさわしいと、矢沼は思う。 ユキのほうは、バカにしてる後輩に、こんなふうに思われてるとは、夢にも思うまい。バレたら激怒しそうだ。 桝前田が笑う。が、玄関ドアを見て、急に青ざめた。 「しまった!」 「どうしたんすか?」 「これだ。これ」 桝前田が示したのは、玄関の猫用入口。 「ガムテープが、やぶれてる。ここから出ていったんだ。ジャッキー」 「なんで、こんなのあるんすか?」 「ちょっと前まで猫もいたんだよ。とつぜん、いなくなって。しょうがないから、ジャッキーが逃げださないよう、ガムテープでふさいでたんだが」 「それって外に行っちゃったってことじゃないすか。どうするんすか? 奥さんに叱られません?」 「怒るだろうな。それも、すごく。まあ、門や柵を越えられるわけない。庭にいるよ。きっと。ちょっと探してくる」 「手伝いましょうか?」 「いや、大丈夫。エサで誘えば出てくるはず。君、さきに風呂使っていいよ」 「あざーす」 遠慮なく、風呂場に直行する。荷物を脱衣所に置き、浴室に入った。 シャワーを使いだすと、周囲の音が聞こえない。 すりガラスの窓の外は裏庭のようだ。外灯に照らされて、ジャッキーをさがす桝前田の影が、何度も、よぎっていく。 シャンプーしながら、なにげなく、それを見ていた。 ふと、矢沼は妙な感じをおぼえた。 さっき窓の外をよぎった影、白っぽい服を着てたような。 いや、白は桝前田も白いシャツだ。でも、さっき見た影は、もっと全体が白くて、長袖……もしくは、着物だったような? そう思っていると、また影が、よぎった。 ゆっくり、ゆっくり。 異常なのろさで、すりガラスの向こうを歩いていく。 わけもなく、矢沼は、ふるえがついた。
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