チャプター1

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心の片隅に芽生えた出来心は、少しずつ膨張して本人の人格さえ塗り替える。 やがて無意識となったその出来心は罪を欲して罪に満たされ、繰り返している内にリスクすら忘れてしまう。 その心の歪みには誰ひとりとして気付けない。 例えば滅多に行かないゲームセンターに居たとしよう。環線道路沿いの大きい店舗のわりに、その日はまだ夜の8時過ぎだというのに客足は少なく、近くにはアーケードゲームやメダルゲームに没頭する老若男女が数人しか窺えない。 ほんの暇潰しのつもりでプレイしていたアーケード版のパックマンがゲームオーバーになり、脱力気味で画面から目線を離したその時、隣の席で先程まで格ゲーに没頭していたサラリーマン風の男が席を立った。画面にはゲームオーバーの文字。仕事帰りに寄ったのだろうか。疲れていたのかもしれない。足元に黒色をした革製のビジネス鞄を置き忘れたまま男はトイレの方へと向かっていく。これに気付いているのは、自分ひとりしかいない。 ここで問う。 その鞄を盗むか?盗まないか? 防犯カメラは勿論、店内至る所で作動している。 もし前科者ならば顔認証で特定されてしまう可能性も否めないだろうが、初犯の場合、日本人口総勢1億2675万人、周辺を滅多に訪れないのならば、置き引き程度ではまず個人の特定は不可能だろう。 今一度問いたい。 盗むか、盗まないか。 東 幸成、高校三年17歳。 彼は盗んだ。 これが中学時代の万引き以来の窃盗だった。 ルックスは特に悪くはないが男前とも言い難い、平均的な地味な顔。細身の体に168センチの身長。髪は短髪で黒髪。非行少年や不良とは思えないぐらい素行だけは良さそうな身なりだった。 幸成は特技や才能があるわけでもなく、やりたいと思える事も何も見出だせず、自分に自信を持てないまま、ただ自堕落に今日まで生きていた。 無気力な日々に突然として訪れた僥幸は幸成の『罪』に対する価値観を狂わせてしまう。 その僥幸とは幸成にとってのみの僥幸であり、被害者からすればただの不幸でしかなかった。 幸成は置き忘れた鞄に気付いた時、徐々に強さを増す胸の高鳴りを感じながら、まず通路を歩く鞄の持ち主に振り向いた。
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