甘酸っぱい謎に悪魔の誘惑

23/37
前へ
/37ページ
次へ
この人は、奏人くんじゃない。 こんな人、知らない…っ。 掴まれた手を剥がそうとする空いた手が、微かに震えている。 目枠に溜まった水滴が今にも落ちそうで、悔しくて、仕方が無い。 「…男なめすぎ」 大きいため息をつかれてすぐ、骨ばった手が離れた。 解放された安堵から愚弄された憤りと、歴然の差を突きつけられた男の人の力強さに芽生えた恐怖心がどっと湧き上がって。 ぐちゃぐちゃな頭の中を整理する余裕もなく、鞄を拾って病室を走り出た。 すれ違いさまに顔をぎょっとさせるパジャマを着たおじさんや看護婦さん達。 院内はエアコンで涼しいはずなのに、暑さしか感じられない。 エスカレーターは、使わなかった。 待っているその時間にも、崩壊しそうだから。 20階分の階段を降りる間、意識は速まる足に集中して、余計な事を考えられずに済んだのに。 自動ドアをくぐり抜けた途端、果てしなく続く藍色の空が無性に優しくて。 妙に心地良い蝉の鳴き声が鎮静剤のように、混沌とした脳を一呼吸置かせてくれた。
/37ページ

最初のコメントを投稿しよう!

61人が本棚に入れています
本棚に追加