声なき海姫と泡沫の想い

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大通りの筋に入ってすぐのビルの一階にある、4人がけのテーブルが四卓しかない、とても小さなお店。 掲げられている白字で書かれた『とんとん堂』の紺地の暖簾や光る立て看板が程よい老朽感漂っていて、隣に建つ昔ならではの新聞屋さんがまた懐かしい風景を際立せている。 共にぽっちゃりとした口数の少ない大将とおおらかな女将さん、そして息子の山川さんの三人で経営している。 ずっと女将さんと一緒に配膳をしていた山川さんの奥さんは妊娠を機に半年前から産休に入っているそうで、手伝いに来ていた大学生も急に辞めてしまい、募集をかけたその日に面接に来た私に縁を感じて採用してくれたという。 そこそこ時給も良い、まかない付き。 お昼の時間は親戚の方が手伝いに来ているため、勤務時間は平日の夜5時から9時までと休日の一日通し。 いっぱい働きたい学生の私にとって、文句なしの好条件だった。 「お待たせ致しました」 注文された定食を置くと、どこからか視線を感じる。 恐る恐る横を見ると、微笑む瞳が私を見つめていた。 「毎日入ってるの?」 「え、あ…はい」 美味しいと評判のうちのお店の客層は幅広い。 そしてビジネス街に近いということもあって、サラリーマンやOLさんも多く来店する。 品のいいスーツを着た彼は何度か来ていて、…すごくかっこいい。 私でもわかるくらい溢れんばかりの色気を放っている、大人の男性。 しかしそのせいで訳もなく気恥ずかしくなってしまうため、未だに直視できないのだ。
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