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「お疲れ様でした」
「ありがとうね。気をつけて帰るのよ」
女将さんは当たり前のように、お給料を頂いてる身の私に"ありがとう"という。
比べるものではないけれど、雇い主としての在り方を考えさせられた。
彼らの言葉一つで不安は自信に変わるし、疲労はやり甲斐へと繋がっていく。
温厚な大将さんと女将さんのおかげで、伊藤家で働いていた時には感じたことのない充実感を味わっていた。
お店を出て、大通りに向かう反対方向の道をずーっとまっすぐ行くだけの帰路。
前方にはラフな格好をした大学生らしき二人の男女が手を繋いでいる。
微かな話し声を聞き流しながら、一人で帰るこの時間が実は好きだったりする。
ガランとした変哲もない、ありふれた道。
大きなマンションやコンビニがあっても、人通りは多くない。
空を仰ぎ見ても、星座たちは各自に身を潜めてる。
それでも、好きだった。
開渠に沿って歩けば優しいせせらぎが聞こえた。
かじかむ手に息を吹きかけば街灯が白い靄を温かい色に照らしてくれた。
何よりも、"回想"を阻むものがなかった。
引越しをしてから1ヶ月半、来週にはクリスマスを控えている。
年末が近づくに従って、思い返してしまうのは終わりを惜しむゆえにだろう。
変動に満ちた一年だった。
そのほとんどが、"彼"で占めていた。
『暑かったろ』
浮かんでは溶け消えてく半透明の吐息が、あの蒸し暑さを遠い昔に経験したような感覚に思わせる。
…時が経つのは残酷なまでにはやい、というしかなかった。
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