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何が良かったかと聞かれれば、思い出すのに些か時間を貰いたい。
惚れた腫れたの概念は初めから無かったかもしれないし、有ったかもしれない。
あまりにもおおよそで、不確かな関係ではあったが、僕には間違いなくそれが必要であり、与え続けてくれた彼の存在は大きかった。
強いて挙げるならば、息が詰まる程の手狭な世界の中で、息が出来る"酸素"をくれ続けたからだろうか。
そこに、強い虚勢心が有ったのもまた、事実だ。
貴瀬環(きせ たまき)は舞台袖から、煌びやかなドレスを身に纏う、女性の背中を見つめていた。
ダウンライトの下、その淡い黄色の布が光を弾いて、一層、その色を濃く主張した。
流れる様な指先で鍵盤を弾き、前後左右に感情のままに身体を揺する。広がった裾がゆらゆら波打つ様がまるで、水槽の中を泳ぐ名も知らぬ熱帯魚を思い出させた。
彼の部屋にある、格子状に区分された戸棚。リビングとダイニングを仕切る様に設計されたそこに、一メートル四方の水槽が収まっていた。
ピカピカに磨かれた水槽には、酸素ボンベが搭載され、徹底された温度管理の元でしか生きられない魚達が悠然と泳いでいた。
綺麗だとは理解できる。癒しとして求められる理由も。けれど、所詮は魚。区別もつかなかったし値段を聞けば、耳を疑いたくなるのも居た。
個体に負けず劣らずの、色鮮やかな餌を水中へと振ってやれば、勝手に繁殖する池の鯉の様に口をパクパクさせる。この瞬間、いくら破格の値段が付こうとも一瞬で同種まで落ちる気がした。
結局は、色や形がほんの少し優れているだけで優位に立てるのは、どこの世界も同で、辟易する。
今思えば、彼の趣味はそういった、他者よりほんの少し優れた物を集める節があった。それが、彼にとっての価値であり、最も重要視される事項。
ひらひらと、尾鰭が揺らぐ事など、どうでも良かったのかもしれない。
悠然と泳ぐ姿を見る度に、可哀想だとさえ思えた。
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