ある夏の日と今の私

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「由美子! 今年はあの投手が一番凄いんだぞ! よく見ておけ!」 興奮気味に話す父に、「興味無いし」と顔も見ずに返す。 「由美子、あんたまだ拗ねてるの?」 母は呆れたような顔をしながら、溜息を漏らした。 「当たり前でしょ。約束があったのに無理矢理連れてこられたんだから」 母の態度に苛立ちを覚えながらも、それを押し殺すように私はペットボトルに口を付ける。 冷たいお茶が喉元を通ると、熱くなっていた体温が下がっていくような感覚がして、私の苛立ちも少しましになった。 「もう来てしまったものは仕方ないんだから甲子園を楽しもうぜ、由美子」 父は甲子園と大きく書かれた一冊のノートを大事そうに抱えながら、白い歯をキラッと見せる。 出場校のデータがびっしりと記されているそのノートは毎年趣味で父が作っているものであり、耳が千切れて細切りにされるぐらいに自慢されてきたものであった。 「あなた、あの高校の三番打者はどうなの?」 「あー。あの選手はね、パワーがあって身体も大きく、足も速くて守備も上手い。走攻守の三拍子揃った選手なんだよ」 「へー良い選手ね」 夫婦の仲睦まじい会話は理解できないし、しようとも思わない。 「ちょっとトイレ」 私はその日何度目かのトイレに向かう為に立ち上がる。 「由美子、トイレの回数が多くないか?」 「パパとママのいちゃいちゃを見るのが嫌なのよ」 そう言ってやると父は顔を赤らめた。 気持ち悪い父に背を向ける。 「反抗期かしら。少し早いわねぇ」 聞こえてきた母の声に、そりゃあんたら夫婦の子供なら早くもなるわと思った。 そうして観客席を離れようとした時、大きい歓声とどよめきが起きる。 ホームランが出たらしい。 グラウンドに目を向けるとホームランを打ったであろう選手がゆっくりとダイヤモンドを回っていた。 打たれた投手は項垂れ、マウンドで腰を落としていた。 三人のランナーが相手投手の様子を一切気にせずにホームベースを踏んでいく。 これで一気に逆転。 さっきまで勝っていたチームの応援席は焦りを浮かべ、負けていたチームの応援席はここぞとばかりに笑顔で騒ぎ立てる。 「何が楽しいのよ」 私はそんな甲子園の様子を冷めた目で見つめていた。
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