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学校にも行っていない。その代わり文字も、最低限の計算や常識も、生きていく為の知恵として、『師匠』から熱心に教えこまれた。
『結月』という名前も、『師匠』から貰ったうちの一つである。
結月が十八の時、最後にと教えられたのが、この仕事を請負うに必要な知識と手練だった。「こんな道にしか導けず、すみません」と、結月の大好きな微笑みを覆った灰色の懺悔は、今でも結月の瞼裏に鮮明に残っている。
「ハイ、どーぞ」
結月はコーヒー入りのマグだけを、ソファー前の机上に置いた。熱を冷まそうと自身のマグを口で吹きながら結月が先程の位置に座ると、やっとの事で仁志の視線が離れた。
仁志が背を上げ、マグへと手を伸ばす。口をつけたマグの傾きを戻すと、仁志は視線を前に向けたまま静かに問うた。
「……この仕事が終わったら、俺の記憶も、『消す』のか」
「…………」
初めて聞いた寂しげな声色と、視界の端に映る物憂げな雰囲気に、結月は胸中に生まれた陰りを自覚した。
そして直ぐに、律する。
(こいつは『客』だ。『仲間』じゃない)
引くべき境界線を間違えてはいけない。
彼の為にも、自分の為にも。
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