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「それ、俺の家の鍵。ほら、あそこにボロくせえアパートあるだろ。そこの向かって一番左側が俺の部屋だから、それで開けて、勝手に入ってくれ」
「どうして?」
遠くに見えるアパートを見据え、遊佐は首を傾げる。右の目元に並んだふたつの泣きボクロが、妙に色っぽい。
「部屋にな、親父が書いた本が腐るほどあんだよ。強制譲渡だ。それいらねえし、全部お前にやるよ」
「ぜ、全部」
「勝手に入って構わないから。俺はこれからちょいと、用事があるもんでな。俺が帰って来るまで留守番頼んだぜ、遊佐」
嬉しそうにそのアパートへ向かう純粋な遊佐の背中を見送り、ついに堪えきれなくなった笑いを今、大放出した。
嘘だ。
遊佐に渡した鍵は、俺の家のそれではない。そもそも実家暮らしなのでアパートになんて住んでないし、都合良く本をくれる友人もそうはいないだろうに。
遊佐め、ざまあみろだ。
あのアパートの左端には、それはそれは恐ろしい女が住んでいる。そんな女の部屋に、突然鍵を開けて知らない男が入って来たら、どっちの反応も面白いに違いない。
こんなに清々しい思いを体感させてくれる夏に、少しは感謝してやろう。
夏と共闘して俺から桜井を奪った罪、償ってもらうぜ。
この腹黒さは母親譲りだな、と自負しながら、飲料水でも買おうかと鞄の中を漁ると、ヒヤリとしたものが背筋を伝った。
財布がない。
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