第1章

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ただ恋しかっただけだ。それだけ。 『俺たち別れよう。お前より良い女を見つけたんだ!』 電話越しに、桜井くんの興奮した声が耳をつんざいた。 大学の夏休みの真っ只中、ほんの少しだけ、彼氏である桜井くんの声が聞きたかっただけなのに、電話に出るや否や彼は突然、そう切り出してきた。 そもそも交際を求めてきたのは桜井くんの方からなのに、しかも当時の元カノに「お前より良い女を見つけたんだ!」と言いながら私の肩を抱いてくれたのに、今、そのセリフを、私に突き付けているのだ。 何も悪いとは思っていなさそうなあっけらかんとした態度、私が他の女から桜井くんを奪った時と全く同じだった。 奪ったように奪われるとはまさに、このことか。 通話が切れると、近くにあった背の低いタンスを薙ぎ倒した。 上に乗っていた物が床に散乱する。元々散らかっている部屋なので、別に構わない。 散乱した小物を更に壁に投げ付けようとした瞬間、殊更くそ暑いのに通話のせいで熱くなったスマートフォンが、短い通知音を鳴らした。 友人からのものだった。 桜井くんのことを友人に愚痴れば少しは軽くなるかもしれない、と思ったが、受信したメッセージを読んでその気は失せた。あちらも愚痴だったからだ。 何でも、大学のサークルの先輩宅で皿を洗いをしていた時、突然窓から水を吹き付けられたらしい。 犯人は隣人の男で、通報したら警察に連行されて行ったらしいが、わざわざホースに繋いで、全開の窓目掛けて水を放出するなんてどんな神経してると思う?という問いかけだった。 無視した。 こっちはそれどころじゃない。心をずたぼろに引き裂かれる痛みに比べたら、水に濡れる程度何よ。 というかこんなくそ暑い中、水をかけてくれるなんて親切じゃない。涼しくなって万々歳よ。
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