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眼に映る風景は見慣れたものばかりなのに、そこに寛之さんがいるだけで全く違う場所にいるようで、落ち着かない心臓がハラハラしている。
「帰らないで、ってこと?」
一字一句を誤魔化さずに言葉にしている口元に視線がいく。音となって耳に届くと、いやらしさが滲んでいて恥ずかしさが込み上げてくる。
「唯?」
彼の眼は逸らすことを許さない強さを持っていて、ビリビリ震えてるのは指先だけじゃない。
私は呼吸をすることもままならず、何がどうなって、なんて返事を返すべきなのかすらわからないのに。
向かいに座っている彼の身体が揺れたかと思うと同時に二人の距離を詰めた。
「ちが…!」
何故私は涙ぐんでいるのか…
何を口走ろうとしているのか…
自分でもわからないけれど、肯定したらダメだと、小さく何度も頭を左右に振ったのに。
寛之さん聞いて。
その言葉は声にならず、私の視界は暗くなった。
「心配しなくていいからな、もう。今までは形だけだったけど、そろそろ、ちゃんとしよう」
力強く抱きしめられていた腕の力が緩むと寛之さんの右手が涙が乾いた頬に触れた。
「ちゃんと?」
「うん。ちゃんと、夫婦、しよう」
ふーふ?
大した反応も出来ずに視線を彷徨わせた。
あ、夫婦…。
脳内で変換された漢字に、ハッと息を吸いながら頭を上げた私を待っていたのは、自分の唇に重なる柔らかな感触だった。
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