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〈陸奥、太古の森〉
霧に包まれ、一面墨を差したように薄暗くなった森。
山間に流れる一筋の川からは、両岸を仰ぐと鬱蒼とした山毛欅(ぶな)の尾根の連なりが見えた。
山ではつい今し方小雨が止んだばかりらしく、山毛欅が吐き出した蒸気を纏って、所々から棚引かせていた。
遥か向こう、太平洋から八甲田の峰々へ吹き上げてくる山背が、それをふわりと持ち上げる。
空へと返される雲の柱の下で、渓流の流れる音だけが薄闇にこだましていた。
突然、鳥が鳴く。川に横たわり苔むした流木の上で、黄色い小鳥が首を小刻みに動かしていた。
不意に川が明るく照らされる。山の低い雲が僅かに、途切れて青い隙間を覗かせた。霧に斜陽が差し込み、光の道を描く。
小鳥はそれを見上げると、再び短く鳴いて流木から飛び立った。
渓流に沿って上流へ飛ぶ鳥の目からは、地上からは見えない様々な景色が見渡せた。
あちこちで群島のような苔むした岩が、流れに逆らって飛沫を上げさせる。繰り返し立つ白波は水底までかき混ぜて、深緑の川を忽ち淡い碧へ変えていた。
両岸の山腹からは、轟音を立てながら大量の水が注がれ落ちていた。細く白糸のように流れ落ちる物、三段に別れそれぞれが水煙を上げる物。渓流を遡る度に現れる幾本もの滝は、水に恵まれたこの森を象徴するようだった。
時折川面の下で岩魚の影が揺らぐ。川に倒れ込みそのまま橋になった古木の上を、羚羊の親子が渡る。どこかで吠えた熊の声が、渓流の音に溶けて流れていく…。
やがて、鳥はある滝の前で飛ぶのを止めた。
これまでのように両岸の山から注ぐのではなく、渓流の流れその物が大きな崖から滝となって流れ落ちる。
横一面にひろがる瀑布は、上流に魚が登る事を許さない。鳴りしきる轟音の中、鳥は滝壺の一つの小岩に降りて羽を休めた。
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