ビハインド・ザ・マスクあるいはアブサンの濃碧色の悪夢

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 唐木が愛用する香水の匂いが霧のように通り過ぎると、すぐに汗の匂いと口臭と、スーツにしみこんだ防虫剤の匂いが圭一の鼻腔を塞いだ。いくつかの硬い肘や膝が圭一の横顔や横腹を次々に襲った。そのたびに圭一は目の奥でちかちかと火花が散るのを見たが、そうした痛撃よりもむしろ、履き古された靴下の匂いに似た体臭や、公衆便所の濡れた床を思わせる唾液の匂い、そして饐えた熱気がたまらなく不快で、目も眩みそうだった。 「早く出して」  秘書が厳しい声で耳打ちをした。目線を上げると会長はすでに乗車しており、秘書は尻からきわめて優雅に乗車するところだった。圭一はドアを閉め、運転席に戻った。運転席のドアを引き、腰を下ろすと、駐車場のまばゆい光や人いきれが突然消失し、まだ耳鳴りはしていたものの、ひんやりとした静寂が圭一の周りに広がった。圭一の短い吐息とともに、ジャガーは滑らかに動き出した。 「ご自宅でよろしいですか?」  圭一はそう言い、バックミラーを見やった。 「晴海通りへ。それから、霞ヶ関入口から首都高速よ」  秘書がコンパクトを畳みながら言った。圭一は頷いて、地下駐車場の出口へ向かった。  もう一度バックミラーに目をやると、唐木はジャケットを脱ぎ始めていた。ジャケットの胸を飾っていた臙脂色のハンカチはそのままであり、秘書はハンガーを構えて待っていた。それが当たり前なのか、吊るされたジャケットにブラシをかける仕草までもが自然な流れの中にあった。広々とした後部座席は、あっという間にくつろぎの空間に変わりつつあった。そのくつろぎを牽引するのがすなわちおれなのだ、と圭一はあらためて認識させられた。 「きみ、大丈夫だったかね?」  唐木の大きな目がバックミラーに映された。圭一は背筋を伸ばして頷いた。 「はい、会長」 「私の講演のたびに会場へ駆けつけることで、忠誠心を示せると本気で信じているらしいのだ。講演の内容はレコーダーで録音してコンピューターに記録するらしいが、頭に記憶してもらわなければ私は困ってしまう。そんなことさえわからないなんて、思えば哀れな連中だ。その哀れさに免じて許してやってくれないか」 「わかっております」  圭一はそう言って、顔を前へ向けた。多少礼儀を失したかと思い、すぐに言い足した。 「お気遣いありがとうございます、会長」
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