カルテ8ー2

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夕べ、陣内の手首を同じように掴んだメモリが浮かぶ。 「頼む、有馬 考えてくれ」 ちょうどエレベーターの横の階段の踊り場。 先輩と私は向かい合っていて 暫く無言の時間を過ごす。 暫くと言っても、ほんの十、数秒。 「あ、佐藤先生?」 高い音は、少しだけこもっていた。 それが、加倉井さんだとは直ぐに分かったけど 振り向いてマスクをしているからだ、とその理由を悟る。 「ああ、加倉井。 早いな、もう来たのか」 「祖父が早く入れてもらえと煩くて…… どうも私に対しては心配症で。 有馬先生、おはようございます」 先輩からこっちに向けてマスクの上の大きな目が少しだけ緩められた。 柔らかで華のある雰囲気は彼女特有のものだ。 「おはようございます」 ダサい大人……。 たかだか高校生に、複雑な気持ちをぶつけるように 笑顔すら返すことなく、片言を呟いただけなんだから。 「先輩、私もう行きますから」 そう言って、手首に視線を落とし、暗に離してくれ、と告げる。 そこに思いついたような彼女の息が上がった。 「有馬先生も、私を診てくださるんだと伺いました。 宜しくお願いします」 にこやかに、丁寧に頭を下げる。 私の邪険な態度なんて、気にしてはいないらしい。 なぜ、こんなにイガイガするのか分からない。 「いえ、私は、」 「加倉井さん」 顔を伏せて、違います、と言おうとしたそこへ イガイガに追い打ちをかけた音は 私に染み込む筈の愛しい男の声。 間違えるわけはない。 ねぇ?陣内。
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