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「結婚指輪、してたのもずっと知ってました。いつかやめなきゃって思いながら、あの人に縋ってたのは俺なんです。……許されることじゃないってわかってます。でも、でももう二度と会いませ んから」 確かに恋をしていた。 花屋はそう自覚する。 直視できない彼の笑みが、自分を抱きしめたままただ眠った彼のぬくもりが、ただ一瞬、一度だけ瞳に映した、果てる直前の彼の精悍な顔立ちが、全てが鮮明に蘇って、そして、自らの手で花びらを毟るように消し去る。 「だから、だからどうか――っん、」  あの人を責めないでください。   ドラマのような台詞が紡がれることはない。  女に差し伸ばされた箸の先、挟まれていた生ハムがくちの中に放られる。上質な癖のない香りが鼻をつく。抗えずに咀嚼する様子を、エドアルドがワインをくちに運びながら、女は表情を変えぬまま、見つめていた。 「私、貴方の花、好きよ」   抑揚もなく淡々と、それでも先刻と変わらぬ穏やかな瞳を浮かべて女がくちを開く。   グラスに波々注がれたワインを顔に浴びせられることも、男のものよりも痛みを伴うである女からの張り手を受けることも、はたまたヒステリーを起こして奇声を浴びせられることさえも覚悟していたというのに、女から紡がれた、自分が手塩にかけた花たちへの褒め言葉に花屋は返す言葉を失う。   ちょっと、くちからはみ出てるわよ、ハムが、そう言われて収めきれていなかったものを親指の腹で口の中にしまい込み、恥じらって顔を逸らす。逸らした瞳の端に、女がひとつ微笑んだような気がしたが、その笑みはどこか九条に似た眩しさを感じて見ることはできなかった。  花屋が後手に回っていると、女はまたくちを開く。  今度は留めることなく、全てを花屋に降り注ぐように紡ぎ続けた。
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