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*  もう四年も前の話か。俺も今年二十六になる。最先端のスマートフォンの技術にもついていけないわけだ。スマートフォンを横にすると写真や画面までくるくると回転してしまうたびに、彼は自身の首も同調するようにその方向へ傾けてしまう。  取引先から入ったメールの画像を見るにも上手くいかずに集中できずにいれば、氷がグラスにぶつかる響きと陶器が擦れる音しか響かない空間で、店主と先客の会話は否が応にも花屋の耳に入った。 「朝からこんなとこ入り浸ってていいわけ?」 「カギ、忘れちゃってさあ。家人が明後日まで出張なのすっかり抜けてたぜ。参ったよ」 「相変わらずそういうとこ抜けてるよねえ、秀次くん」   相変わらず、ということは先客も常連なのか。それもそうだろう。こんな時間から店がやっていることを知っているのは百万が一の偶然がなければ不思議なものだ。小気味よいテンポで投げては返される会話を気に止めることはなく、花屋はようやく卸問屋への返信メールを打ち終えてひと息つき、今度は写真のフォルダを開いて不要になった画像を削除しながら暇を潰す。 「それ、どうしたの。貢物?」  小馬鹿にしたような笑い声と共に店主が尋ねる。 「機嫌取り」 「っはは、大変ですな」  うるせえ、と特段怒気に満ちていない言葉を返したあと、男が店主に紡いだ言葉が耳打ち程度の音で花屋の立つ場所まで聞こえることはなかった。 「承知致しました、お客様」  突然取り繕ったようなマスターの言葉が今度ははっきりと聞こえたあと、カウンターに座っていた男は立ち上がる。入口のすぐ側にある洗面所へ向かうためだったが、狭い空間にも関わらずスマートホフォンを凝視している花屋の横目にも、男の容姿がはっきりと映ることはなく、シャツから染み出た汗の香りだけが鼻をついた。  錆び付いた音を立てたあと、ぱたり、と洗面所の扉が閉じられる。  それを見計らったように店主がカウンターから出て花屋へと歩み寄り、彼の肩を指先でふたつ叩いては二枚の皿を彼に差し出した。  ザワークラウトの添えられたソーセージに、スペイン風オムレツ。有り合わせというには豪華なまかないに、輝かせた瞳を店主に向けて仏教徒のように胸元に両手を合わせた。 「いつもありがとうございます、僕の栄養源です」  深々と頭を下げれば、伸びた前髪がさらりと揺れる。
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