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師走のはじめ、新宿二丁目の裏路地。 十年前この路地のすぐ近くに、地下鉄新宿三丁目駅が開設されてからというもの、利便性のよさから近辺はオフィス街として注目されるようになった。そのせいか、巷ではゲイタウンと呼ばれたこの街からの同性愛者離れが進んでいると噂されるようになったが、風前の灯状態にありながら数少ないゲイバーやハッテン場は経営に苦しみながらも、そこを拠り所とするゲイたちに愛されていて、週末の夜半になればこの二丁目でひっそりと、彼らは相手の肌に触れ、欲情し、そして、まぐわう。 靖国通りから三本目の路地を裏手に入った先、古びれたビル街の一角に二丁目の中で異彩を放つ、見た目とは裏腹に清らかな香りを放つテナントがあった。 パチン、パチン、と響く鋏の音。 近づくと香る、青々とした草木の香り。 立て付けが悪く数十センチ顔を出しているシャッターの前で一輪の花を片手に微笑むワイシャツの男。 ゲイ御用達の店が立ち並ぶ路地の片隅にあるちいさな生花店は、毎日午後十時に、シャッターが上がる。 店主の名前は花屋朔(はなやさく) 年を老いた先代が病に倒れたのを機に彼が若干二十二にしてこの店を継ぐことになったのだが、花屋と先代との間に血脈はない。 同性愛者の男たちが闊歩し、所謂ハッテン場やゲイバーの立ち並ぶこの路地では毛色の異なる生花店には多種多様な客がやってくる。 「朔くーん、こんばんは」 店先で百合の根に鋏を入れていた花屋は、雑踏にも確かに響いたヒールの音と聞き慣れたハイトーンボイスのほうへと顔を向けて、笑顔を繕うでもなく手を止めた。 「こんばんは、加奈山さん」 加奈山と呼ばれた女は、薄暗いこの路地よりも三丁目の高層ビル街に似つかわしいオフィススタイルに身を包んで、一万円札を二本のゆびに挟んではひらひらとはためかせていた。 「今日も随分遅いんですね」 「これでも早かったのよー? 来月発売の担当雑誌、今日の二十一時が締切でね。新人がミスさえしなければアフターファイブだって楽しめたのにこのザマよ。まぁ私の手腕で締切には間に合って、晴れて明日は一ヶ月ぶりの休みってわけ」 疲労の色を浮かべながらも誂えた顔の化粧は落ちていない。 女が溜息を吐いたあとにっこりと微笑むと、花屋はそれをみて「お疲れ様です」と穏やかに笑ってみせた。
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