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女は万券を揺らしたまま、何かを花屋に注文することはない。
変わらぬ口調で淡々と愚痴をこぼしていたかと思えば、鳴り響いた携帯のバイブレーションに眉を顰めて通話ボタンを押した。
花屋は特段女に気遣いをすることなく、手に持っていた一輪の百合を花瓶に戻す。
そして女を残して店内に戻り、生花の品質管理のために空調の効かされたショーケースの中を見つめて腕を組む。ガラリ、とそこを開いて色とりどりの花の茎を次々と落としては、天板に並べる。数十本のガーベラにふんだんなかすみ草、そこに色を添えるような赤いフリージアを一本だけ添えて色彩のバランスを見ながら形を整えていく。
慣れた手つきで茎の根元を輪ゴムで束ねて、水分を含ませた包み紙でくるむ。アルミ箔を巻きつけては適当な大きさに切ったセロハンを纏わせると、包まれた花々に心があれば嬉しそうに微笑むほどに美しい花束が出来上がり、花屋はわずかに微笑む。
「……わかったわ、それは休み明けに出勤したら先方に報告するから。うん、はい、それじゃあね、わざわざありがとう」 女が終話ボタンを押す。
その胸元に、花屋は出来上がったばかりの花束を差し出して、先刻浮かべた笑みを消して無表情になっては、くちを開いた。
「今月もお疲れ様でした、加奈山さん」
わお、と女のくちから感嘆の言葉が漏れ出される。彼女は真っ赤な口紅をまとった口元を嬉しそうに緩めてから、オレンジ色のガーベラに鼻先を寄せる。
すうっ、と鼻から吸い込んだ空気にやわらかな蜜の香りが鼻腔を抜けて、彼女のからだ全身に染み渡る。女はこうして多忙の褒美に花屋の店を訪れるのが常になっていた。毎回色味も香りも異なる花束が独身貴族の彼女にとって、面倒くさい男との馴れ合いよりも、はたまた巷で噂のペットが与える癒しよりも、溜まった疲れを解させる魔法のようなものだった。
花束を渡した後、女の反応を見ることなくトレーに乗せていた百合の根に再び鋏を入れていた花屋は、強く腕を引かれれば「うわっ」と声を漏らす。
最近はやりの肉食系女子ならばこうして強引に接吻でも迫るのだろうが、「男に幸せにしてもらうなんて不幸せ」と、そんな言葉を座右の銘に掲げる女が花屋に唇を寄せることはない。彼女は引き寄せた花屋のシャツの胸ポケットに、ここに姿を現したときからひらりひらりと手指のあいだで揺らしていた一万円札をねじ込む。
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