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子供のようにすよすよと寝息を立てる花屋は、心地の良い夢を見ているように幸せに満ちた穏やかな顔をしていた。男は彼を見て、唇を結ぶ。安堵と悔しさをせめぎ合わせながら見つめたあと、九条の言葉に「そうですね」と相槌を打って屈託なく微笑んだ。 「不躾に、失礼しました。お帰り、お気をつけてくださいね」 九条にそれ以上何も問うことなく、九条の視線に臆することもなく、男は泥土に汚れた目尻に皺を寄せて笑い、ちいさく頭を下げた。地面に下ろしていた肥料の入った麻袋を持ち上げて、男は九条の乗った車に背を向ける。 「何か、」 引き止めるように紡がれた九条の言葉に、男は髪をさらりとなびかせて振り返る。 「何か、伝えておきましょうか?」 ついさっきまで嫉妬心をむき出しにしていたというのに、相手が抵抗してこないと見るやいなや自分が悪役のように思えて九条は自嘲した。純朴な好青年に対して、二丁目で育った自分が悪役のままではごめんだと言葉を吐いたが、このほうがよっぽどいやらしいのかもしれないとも彼は思う。  男は月夜に淀みのない瞳を輝かせながら、しばし考え込んだ。   再び双眼を細めて微笑んだあと、それじゃあお言葉に甘えて、と前置きして願いを込めた言葉を紡ぐ。 「いつでも君の幸せを願っていると、伝えておいていただけますか」     九条の返事を聞くことなく、男は笑顔のまま背を向け、今度は振り返ることなく颯爽と、向日葵畑のある一本道のほうへと消えていった。彼の背が見えなくなるまで見送ったあと、九条もひとつ息を吐いてランドクルーザーのエンジンを蒸す。よく眠っている花屋を起こすことなく、車を帰途へと走らせた。
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