価値ある地への近道は

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あの主人公のように、完璧にはなれない。 フィクションと現実の間には非情なまでに大きい壁が存在するのだから。 それでも、少しぐらいは近づく努力をしたくなった。せっかく非現実的な、似たような境遇に置かれたんだから。 ノートにペンを走らせる。走らせると言っても、ペンの進みはきわめて遅い。歩かせると言った方が適切かもしれない。ペンと目線は辞書とノートの間を行ったり来たりだ。 とりあえず、文法はそこまで気にしなくていい。意味が伝われば上等だ。 伝えたい内容を意味する単語を、最低限語順だけを気にしながら紙面に並べていく。 「あっ、くそ」 文字を間違えた。こちらの世界の文字にもまだ慣れない。読み方は覚えたが、書く方は依然見本を見ながらじゃないと無理だ。文字の種類は、五十二種とアルファベットより随分多い。日本語や中国語のように漢字や仮名の区別はなかったのが救いだ。 また、こちらの世界のペンに鉛筆はない。 すべて万年筆のような形状で、インクを補充しつつ書かなければならない。これも手が思うように進まない要因の一つ。慣れない道具は使い辛い。 肩や腰の凝りが強くなってきたことで、時間の経過を感じる。ペンを机に置き、座ったまま両腕を上げてぐっと伸びをした。右手の小指側の側面がインクで黒ずんでいる。 「うわ、もう四時か」 壁掛け時計の針は思ったよりも進んでいた。元の世界で四時といえば明けてくる時間だが、こちらでは明け方までもう少し余裕がある。 「徹夜かな……」 食事の時間は決まっているし、遅れるわけにはいかない。まぶたの重みが増してきた目をこすり、改めてノートに向き直る。 書きたい内容は概ね書けたし、あと一時間もあれば終わるはずだ。 ここまで真面目に机に向かっているのは久しぶりかもしれない。向こうの受験勉強も、こちらの言語の勉強も、どこか惰性でやっていたのは否めなかったから。 それからもうしばらく、ノートや辞書と格闘を続けた。途中、使いたい単語がまるで見つからなくて、予想より時間がかかってしまった。遠くの空がほんのり白んできた、そんな頃。 「終わった……」 大きなあくびをかみ殺す。改めて紙面に目を落とした。汚い字に訂正が入り乱れて、見た目の悪さは中々のものだ。 「まあ、意味伝わればいいし……」 自分の字に苦笑しながら、書いたページをノートから丁寧にちぎった。
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