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座っている席が出入り口に近いせいだろうか、ひどく寒い。
マグカップの中身はすっかりぬるくなってもう湯気はなく、ミルクも分離しはじめ白く浮き上がっている。
私はトレーに載った紙ナプキンを口元に持って行き、力任せに唇をこする。
薄い紙が破れる音がした。
そこには口紅の赤がまだらに色移りしている。
思考、動作はもちろん、今は視線を動かすことさえも面倒だ。
しばらくの間、私は動きを忘れた人形のようにじっと座ったままでいたが、何気なくふと顔を上げたとき、偶然にも向かいのビルから米本が出てきたところだった。
同僚らしき男性と談笑しながら、煌々と明るいエントランスから暗い夜に姿を現す。
一人は傘を開き、米本は雨空を見上げて何か言ってる。
傘を持っていないようだ。
軽く手をあげ挨拶を交わすと右と左に分かれる。
雨の中、米本が走って行くのを、私は追いかけはしなかった。
だんだん遠ざかっていく後姿を店の中から、追えるところまで目で追っただけだった。
夕刻から降り続いてる雨はもうすっかり夜の町を濡らしている。
セロファンに包まれたような艶を帯びた街に米本が溶け込んでいく。
オフィスの窓明かりがたくさんあるとはいえ、ここは私の知る町に比べればとても暗い。
雨の夜はひときわ美しい歓楽街を思い出す。
色とりどりのネオンが水に反射して輝きが増すのだ。
乾きに潤いをくれ、汚いものを流してくれる。
その光景を懐かしいとは思うものの、戻りたいとは思わない。
ただ少し、ほんの少し恋しく思う。
いつの間にか、背後の席の女の子たちはいなくなっていた。
私もおもむろに席を立ち、店を出る。
中から見ているだけの雨とは違って、実際に身体に当たればそれは冷たく、けして気持ちの良いものではなかった。
ぽつぽつと雨に打たれながら、とりあえず、米本が消えた方向に歩く。
少し先にある地下鉄の駅へ彼は向かったのだろう。
私にあてはない。
あてがないのだから、走る先もない。
潔く、雨に濡れる覚悟を決めて、普段どおりもしくはそれよりゆっくりと歩いた。
まわりから不審な視線を浴びているが、気にはならなかった。
第一、人の目だとかそんなものをいちいち気にしていたらホステスなどやっていられない。
その時、肩にかけた鞄の中で電話が震えていることに気づく。
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