満ち足りた生活

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 俺は南を目指してひた走っていた。すぐさま拿捕されては元も子もないので、山を迂回してのルート取りで、視界には悪路とうっそうと茂った木々のみ。明かりはなく、施設からくすねたペンライトの心もとない光だけが僅かに足元を照らす。  稜線が夜の空を塞ぎ、久方ぶりにお目にかかった星空も微々たる明滅を見せるのみ。だが、そんな暗黒の風景や、時たま足をくじきそうになる山道の湿り気のある地面の弾力さえ、無味乾燥な生活を強いられた俺にとっては、途方もなく外界を感じさせるものであった。  起伏の激しい山道は、慣れていなければ見る見るうちに体力を奪うものだが、俺の洗練された肉体は、心肺機能、新陳代謝などあらゆる面で平均値を大きく上回っているため、造作もないことだった。施設での計算されつくした食事が奏功したのか、落ちる一方だった視力は回復し、夜目すら利いているように暗闇でもペンライトの灯りだけで十分だった。  まったく馬鹿げていた。ようやく目が覚めた。きっと集団催眠にでもかかっていたのだ。  用意されたのは、完璧な生活。しかし、完璧など所詮は幻想なのだ。この世に完璧など存在しないのだから。あるとすれば、それは狭隘な空間でしか通じないまやかしである。
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