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「あ、螢……?」
螢を見たのはそのときが初めてだった。螢は意外なほどはっきりとした碧色の光を放ちながら、不規則な軌跡を青白く闇に記していた。
それを目で追う僕らの繋いだ手と手は緊張に少し汗ばんでいた。
――あの夏、群舞する螢のかげで、僕らは消え入るようなキスをした。
下校する生徒達が西日黄昏色に染まる校庭をつっきていく。
衣替えしたばかりの紺のブレザーの背中はどれも同じようにみえた。男子と女子とはズボン、スカートの違いでかろうじて見分けることができる。
僕は四階の教室の窓辺で、そんなふうにたくさんの背中から実に正確にある一人の後ろ姿をみつけだしていた。
隆史。
あの背中は隆史(たかし)だ。隆史はいつだって背筋をぴんと伸ばしてまっすぐに歩いていく。
「そうやって見送るくらいなら一緒に帰ればいいのに」
さっきまで本を読んでいた斉藤がいつのまにか側に来てつぶやく。
斉藤も僕と同じように放課後よく教室に残っている一人だ。僕には僕の帰りたくない理由があるように斉藤にも斉藤の帰りたくない理由があった。ただし、僕たちは決してお互いのそれに触れようとしなかった。
「宮原は、川野のこと好きなんだろ」
斎藤は僕と隆史が恋愛関係にあることを知っていた。おぼろではあるが、プラトニックでないことにも気づいていだと思う。それでも斎藤は嫌悪や驚愕を示さなかった。それは斎藤がいい奴であるとかそういう以前に(もっとも斎藤は実際のところいい奴ではあったが)、彼が彼自身抱えている問題に手一杯で僕らのことにまで余計な気を割いている余裕がなかったせいといえる。義父とか義妹とか。そんな単語だけが残酷な好奇心とともに一人歩きしていた。そんなわけで僕は僕で斎藤の事情をなんとなく知っていた。
「好きだからこそもう一緒にいたくないってこともあるんだよ」
「ふうん。そんなもんかね」
斎藤はわかったようなわからないような無表情で頬杖をついた。宿直の先生が追い出しに来るまではまだ少し教室にいられる。斎藤はいつものように広げていた本に目を落とした。たいしておもしろくもなさそうに字面を追いはじめる。僕は再び、日暮れて薄闇に覆われている校庭に目を落とした。
もう、隆史の姿は見えない。
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