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春、庭の桜がもうすっかり葉桜になっていた。
春と言っても、夏は目の前だ。
美也子はガラス扉を開け、ヨロヨロと外に出てきた。
かなり痩せている。
「お義母さん、何してるんですか!」
聡子が慌てて家から出てきた。
「寝てて下さい」
美也子は首を横に振った。
「ここにいさせて頂戴。蝉の声が聞きたいの」
「蝉なんて今はいません。まだです。夏になったら、また出ましょう、ね?」
聡子は無理にでも美也子を家に入れようとしていた。
病気のようだ。血色が悪い。
「ちょっとだけ、ね、ちょっとだけだから」
「お義母さん、」
「あぁ、ちょっとアイスを持ってきてくれないかしら?」
「アイスですか?」
「ここで食べたいの」
聡子はガンとして動かない美也子にあきらめた。
「アイス、持ってきます。食べたら家に入って下さいね、」
「ええ、そうするわ」
聡子は家に消えた。
美也子はイスに座って、庭を見回した。
「正也君、ありがとうね」
そうつぶやいた。
「蝉、ありがとうね…」
桜の木に、蝉がはい出てきた。
そして、季節外れの夏の声が庭いっぱいに響き出した。
冷凍庫を覗いていた聡子は、驚いて顔を上げた。
蝉の声だ。
何かイヤな予感がした。
急いで庭に出ると、イスに座ったまま、大木を見上げるように、美也子が瞼を閉じていた。
「お義母さん!」
次の瞬間、蝉は鳴き止み、そして木の根元に、力尽き落ちた。
初めて、姿を現したその蝉は、56年前、正也が逃がした蝉だ。
7日間の命を全うすると、その庭で生まれ変わり、また7年後に美也子に想いを伝える為に土から這い出た。
何度も、何度も、何度も、7年ごとにただ鳴くだけだ。
それでも、また声を上げる。
だが今、伝えるべき美也子はもういない。
役目を終えたその蝉が、二度と土に戻ることはない。
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