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「ここにいるのはわたくしかしら」
「たぶん、そうだと思う」
一度描き始めると没頭してしまい、周囲のことがまったく見えなくなる癖は親や友人に注意されることは多々あった。大学に入って絵を描くことに集中できる時間が増えたせいか、余計に拍車がかかった気がしている。
その上、今回は仲間に指摘されるまで気付かなかった。描いている対象物まできちんと目に入ってなかったと判って、少なからず落ち込んでいたのだ。
『きれいな絵だとは思うけど、いまひとつ、響くものがないね。ただ描き写すだけなら写真だってあるんだよ。もっと自分にしかできない表現を探さないと』
教授に言われた言葉を思い出してしまう。美術大学に入れば好きなだけ絵を描いていられると思っていたのに、今は描けば描くほど苦しさを感じる。
あげく、唯一の息抜きがひたすらスケッチをすることだなんて、我ながら情けない気もする。
「わたくしって、こんな表情してますのね。画家の方ってすごいですわ」
「画家なんていうほどのものじゃないけど」
今亮太の目の前にいる春乃はころころとよく笑う。笑うと左の頬にえくぼができて、それが可愛いと思った。
亮太が描いた春乃は、窓から顔をのぞかせているのだが、今とは似ても似つかない表情だ。窓の外を見つめる目は暗く、疲れたように俯いている。
こんな年寄りみたいに描いたのに、この人怒らないんだ。
春乃がぱたんとスケッチブックを閉じて膝の上に置いた。
「よく見てらっしゃるわ」
それまでより声のトーンが一段下がる。亮太が顔を上げると、笑みを浮かべた春乃と目が合った。明るい笑みではなく、翳のある妖艶な笑みだ。そんな表情を浮かべると、亮太の描いた絵とよく似ていた。
「河辺さま、不思議に思っているのでしょう。わたくしのような者が何故、こんな辺鄙な場所で土蔵に居るのか」
「そ、そりゃ」
気にならないといえば嘘だ。だが春乃の笑顔が急に恐ろしく感じて亮太は言葉を濁した。
「二度も尋ねていらしたのも何かの縁ですわ。聞いてくださいます?」
スケッチブックを亮太に返し、春乃は背筋を伸ばした。
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