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「そんなことはないさ。とても嬉しいよ。だけど、何というか……。ちょっともったいないかなって」
「もったいない?」
「実はな、俺は就活していた頃にトミタも受けたんだよ。だけど書類選考でだめだった。そうやってスタートラインにも立てない奴もいるのに、経営陣に迎えられて手腕を発揮できる環境にいるんだ。
ほんのひと握りにしか許されていない特別な境遇を捨てるほどの魅力が、俺との平凡な生活の中にあるのかな、って」
ぼそぼそと言う俺を浩哉はじっと見つめている。俺はその視線の強さに居たたまれなくなって、後頭部をぼりぼりと掻いた。外した視線をちらりと浩哉に向けると、浩哉は手にしていたぬいぐるみをぼすんと俺の顔に突き出した。
「えっ、なに?」
俺はグイグイと顔に押しつけられるシロイルカの胴体を両手で持ち上げた。胴体の向こうに見えた浩哉は怒っているようだった。
「確かにトミタにいた一年は驚くことばかりだった。毎晩のように催されるパーティーに、一生会うことも無いと思っていた要人と同じ席についたり、プライベートジェットで海外に行ったりね。
でもね、ぼくにはそんなことはどうでも良かった。一年間離れてみて、ぼくには陵介との毎日が一番に特別な日々だって認識させられたんだ」
きつく俺を睨んでいた浩哉の表情がふわりと柔らかくなる。
「陵介は自分の生活が平凡だって言ったけれど、陵介に逢うまでのぼくにはそれすらも過ぎたものだった。
平凡でありふれた日々が一番に大切なんだって、ぼくは分かったからここにいる。それに……、ここは初めて、ぼくが帰って来ても良いって言われた場所なんだよ」
浩哉がシロイルカ越しに俺に抱きついてきた。俺がそれを受け止めると、
「……ぼくは陵介の隣りにいてもいい?」
そんなの当たり前だ。
でも俺は喉の奥が締めつけられて上手く言葉に出来ない。だから応える代わりに浩哉を強く抱きしめる。俺がシロイルカに似ているのなら、この想いがテレパシーになって浩哉に届けばいいと念じながら。
「あ、いま、届いたよ」
「え?」
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