日常1

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 やっと家に着いたとホッとする。  薄暗い路地を少しだけ家の門の前を過ぎると車のハンドルを右に切る。そのまま、ギアをバックに入れて背後とバックミラーを見ながら駐車場へとゆっくりとアクセルを踏んだ。  既に小さな駐車場には黒い軽自動車が停まっている。今日は客先に寄ってから直帰すると言っていた部下の顔を思い出して、頬がだらし無く緩むのが判った。  ここは俺、津川陵介(つがわりょうすけ)の一国一城の住まいだ。  と言っても、元々は俺の親父が建てた古い家で、両親は数年前に俺の祖父母達の面倒を見るために田舎に引っ込んでしまい、俺が今は一人で住んでいる。いや、正確には一人じゃない。三ヶ月前から同居人が一緒だ。  自分の車を所定の場所に駐車し終えると助手席に放り投げていたコンビニの袋を持って運転席から下りる。猫の額ほどの前庭の植木の葉に水を撒いた後を認めて、さらに俺の顔がにやけてしまった。  からりと玄関扉を開けて三和土を眺めるときれいに磨かれた俺よりも少し小さな黒いビジネスシューズがきちんと揃えて置いてある。いつも几帳面だなと思いながら、わざと声を出さずに静かに玄関扉を閉めた。  廊下の奥のキッチンから灯りが洩れて、同時にすうっと空腹を刺激する爽やかな薫りが流れてきた。今日の夕飯はあれだな。俺のリクエストの一つに応えてくれたのか。  靴を脱いで廊下を静かに歩いた。古い廊下はきしきしと音を立てたが、それでも綺麗に磨かれて良い具合の飴色だ。俺が一人で住んでいた時には廊下の隅には埃の毛玉が転がったりしていたのに。  開け放たれたキッチンを覗くとダイニングテーブルの向こう側にこちらに背中を向けて立つ人物の姿が見えた。どうやら、コンロの前で夕食の仕上げをしているようだ。  柔らかく艶やかな黒髪の短い襟足から、すっきりとしたうなじが薄いブルーのシャツの肩へと続いている。俺よりも華奢な背中はすっと芯が通っていて、それだけでもいつまでも眺めていられる。  細い腰にはエプロンの蝶々結びが、スラックスの下のヒップラインが小さく円く上がっているのを際立たせていた。
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