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袖を捲った両手はコンロに掛かった鍋の中のものを調理中だ。お玉から少し掬ったとろみのある液体を小皿に入れて味見をしたのか、彼は納得したように軽く頷いた。
――まだ俺が帰ったことを気づいていないのか。
俺と暮らし始めてから三ヶ月ですっかりこの家のキッチンに馴染んでしまった彼、真木浩哉(まきひろや)に気取られないように、俺は提げたコンビニの袋をダイニングテーブルの上に置くと、上着とネクタイを自分の椅子の背凭れに掛けてから、そろそろと浩哉の背後へと近寄った。
お玉を持った左手がくるりと鍋の中を一掻きするのを彼の後ろから認めて、浩哉の背中に軽く胸をつけて体を凭れかからせる。
瞬間、ひくんと浩哉の背中が震えたが、柔らかい襟足に鼻を押しつけて一つ大きく息を吸い込んだ。鼻腔に浩哉のつけているコロンが仄かに香ると、それを愉しむように一呼吸置いてから息を浩哉のうなじに吹きかけた。
「おかえり、陵介」
「うん、ただいま、浩哉」
浩哉の左肩越しに顔を出して、頭を浩哉の耳に寄せた。自分の頬に髪と一緒に浩哉がかけている眼鏡のフレームの硬い感触があたる。
「なあ、それ、ウシ? トリ?」
俺の質問に浩哉がくすりと笑って、
「牛だよ。ビーフカレーが食べたいって陵介、言ってたでしょう?」
「おー、なるほどそっちか。それじゃ次は骨付きチキンのスープカレーな」
浩哉がさっき自分が使った小皿に少しのカレーを注ぐと、ふうふうと息を吹きかけて冷ましてくれた。それを肩ごしの俺の方へと差し出すと、俺は亀のように首を伸ばして、浩哉が口をつけた小皿の縁からぺろりとひと舐めした。
「辛さはどうかな?」
「うん、うまい。これくらいでちょうど良い」
よかった、と嬉しそうに言った浩哉の絞まった腹にエプロンの上から左手を這わせる。軽く力を入れて抱きしめると、
「陵介、もうすぐ出来るから手を洗って皿を準備してよ」
鍋からお玉を引き揚げて蓋をした浩哉を後ろから抱きしめたままで、俺は横にカニ歩きを始めた。
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