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「ちょっとなに?」
「手を洗うんだよ。で、浩哉はついでにそこのプチトマトを洗う、と」
サラダ用のプチトマトがシンクの横にパックされたままで置いてあるのを見て俺は言った。
コンロの横のシンクの前に浩哉と重なるように立つと、肩ごしに手を伸ばして蛇口を捻った。少し大きく開き過ぎて勢い良く出てきた水は、シンクの底で跳ね上がって小さな水滴を四方に散らす。
「陵介、冷たいよっ」
浩哉の右手が俺の右手を甲の上から包むと蛇口を少し閉めて水の勢いを緩める。俺は浩哉にのし掛かるように手を前に突き出して両手を洗った。
「陵介、腕時計まで濡れてる」
「大丈夫、十メートル防水」
はは、と浩哉が苦笑いをして体を前に屈めたままでプチトマトを洗い始めた。
俺は浩哉がかけているエプロンを捲ると、がしがしと洗った手を拭いた。
「こら、もう。陵介、いい加減離れてくれないと重いし夕食の準備が出来ない」
そんな浩哉の抗議に俺はもう一度、浩哉の香りを吸い込んで耳にかかる眼鏡のフレームを食むように軽い口づけをした。まだ離れる様子の無い俺に、浩哉はプチトマトの水気を切ってから少し顔をこちらに向けた。
「どうしたの? 今日はやけに甘えてくるね」
「そうかな?」
「うん。普段から陵介は家では甘えたがりだけど、今日はさらに。夕方からのエリアマネージャー会議で絞られた?」
間近で響く浩哉の声が耳に心地良い。エプロンで拭いたまま、浩哉の腰に廻し組んでいた俺の手が、やんわりとした浩哉の手の温もりに包まれた。
「まあ、会議で絞られるのはいつものことさ。成績が良かろうが悪かろうが何かイチャモンは受けるんだ。それでもうちの店はおまえのおかげで毎月達成率百パーセント越えなんだ。店長曰く、真木さまさまだよ。だから統括部長には文句を言わせていない」
「ぼくひとりが頑張ったって大したことは無いよ。うちの店の営業はみんな意識が高いから。それは一重に上司に恵まれているからですよ、津川エリアマネージャー」
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