永禄2年の上洛

2/2
前へ
/112ページ
次へ
今日は(すでに昨日ですが)、洋服などを買いに行って疲れました。 人ごみが大嫌いなので、しんどいわー。 そして見事に右肩上がりの体重。なにも着れない。 やっすいのばかりお買い上げ。 それから地元のコメダ珈琲でお昼を食べて、あとは地図を眺めていました。 信長がようやく上洛するところまできました。しかし問題が。。。 上洛経路が伝わっていないので、どの道を使ったのかわからないんですよね。 帰りは何事か起こって八風越えをします。ぐにゃぐにゃした白い道。 本によっては往復八風越えと言っているものもありますけれど(岡ちゃんとか、岡ちゃんとか、岡ちゃんとか)、そんなこと信長公記も一言も言っていないわけで、むしろ行き帰りは別経路だったことを示唆しているように思えます。太田牛一もどこまで正しいのかわからないですが。 んで。 結局2014年に発見された足利義昭の発した書状に書かれていたルート(ほぼ東海道)を援用しました。 この書状は、永禄9年8月28日の日付があり「織田尾張守が自分と一緒に上洛することになったからみな自分に味方するように」という内容らしいです。 信長としても矢島で義昭と合流するためにはもっとも早く到着するルートを使いたい。 そして使ったことのないルートは危険が伴うので使わないでしょう。 ですから、前回の永禄2年に使ったルートを使うだろう、と考えて、この書状に書かれているルートを永禄2年上洛ルートとしました。 地理音痴の私には難しかった~。 2016/09/01
/112ページ

最初のコメントを投稿しよう!

106人が本棚に入れています
本棚に追加