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教会は今まで世俗的な事件からは距離を置ける立場だった
司祭の中には事件を起こす者もいた
しかし信者も世間もそれを宗派や教会の責任とは考えなかった
しかし今回は違う、何故ならキリスト教の考えでは人の命は神の与えし物であり奪う権利を持つのは神のみである
それを自ら捨てる事は神に対する冒涜なのである
三人の司祭は教義に背くと同時に神を冒涜したのである
これはキリスト教の信者全体に対する裏切り行為である
だからその司祭を置いていた宗派が責任を追求されるのは当然である
それなのにあろうことか大司教ともあろう者が司祭の死を個人的問題と言い切ってしまったのだ
これでは日本カトリック教会は神への冒涜を承認した事になってしまう
大司教は追い詰められてしまった
大司教はこの責任をとり教区長を辞任するだろうが今ここの問題はそんな物ではすまない
マスコミの追求は更なる熾烈を極めた
宗教と言うベールに守られた物を白日の元に晒してしまおうと言う悪意さえ感じられた。
しかしカトリック教会側も自ら大司教が出て来たのにはわけがあった
この教区長は途中から他業界から展開した切れ者なのである
長い沈黙の後教区長の反撃が始まった
「責任と言う俗世界のルールをどうしても教会に追求するなら、我々も俗世界向きの反論をさせていただきます
なくなった三人の司祭の責任はその上司である教区長である私の責任です、したがって私が責任を取る覚悟がある限りカトリック教会は責任を取る必要はありません」
民法の事業者と雇われた者の責任配分を教会と司祭との関係に使って来たのである
民法では事業者と雇われた者の間に管理者がいる場合事業者は管理者の監督責任のみ問われる形になる
その管理者の監督責任を教区長の責任として置き換えようと言う考え方である
責め腹を切るつもりなのである
しかしメディアは納得しなかった
「では日本カトリック教会には責任はないんですか」
「いえ、日本カトリック教会教区、ひいては日本カトリック教会には連帯責任を逃げられないでしょう」
驚くべき展開になった教区長である大司教が司祭の自殺をカトリック教会の責任として認めたのである
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