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その日も午後からレッスンの日だった。アヤはバーコード先生のレッスン室で音階を弾きながらコウダイを待っていた。先生の奥様は「新しいハーブティが届いたのよ」としきりに誘ったがアヤは丁重に断った。
コウダイがドアを開け、入ってくる。
「こんにちは。久しぶり」
「はい、よろしくお願いします」
アヤはしばらく週に一度のレッスンを休んでいた。叔父と叔母の死やら、引越しやらで忙しかったからだ。よくよく考えてみると、あの演奏会以来だと気付いた。
「演奏会お疲れ様でした」
「ええ。でも私、倒れちゃって」
「いえ、素晴らしい演奏でしたよ、それより、貧血はもう大丈夫なんですか?」
そういうと優しく微笑んだ。
「はい、私、貧血ぎみで。鉄分を取りなさいって母に良く言われるんです」
「鉄分かぁ…何で摂ればいいんだろうな…」
「レバーかしら?」
コウダイは声を出して笑った。
コウダイは演奏会について他に何も触れなかった。あの時、「途中で曲を終わらせたのはいけない」と言った声は幻だったのかとアヤは思った。
コウダイはピアノに向かい、音階を弾き始め、そして指をとめるとピアノの前でじっと黙ったままうつむいた。
アヤは弓を持ったまま、彼のうつむいた顔を見ていた。一瞬時間が止まったようだった。
そしてコウダイは席を立ち、何も言わずにアヤの背後に立った。
「本当にあの演奏は素晴らしかったよ…あの世界に行けた…?水の精は…いた?」
「え?どういうことですか…?」
すると急にアヤを背中から強く抱きしめた。
「いや、いいんだ…好きだった」
「あの時の演奏が…?」
「いや、君のことが…ずっと…」
アヤは動けなかった。心臓も体も。
アヤのうなじにコウダイの唇が触れた。
彼女の腕を掴む。力強く、そして優しく。
そしてアヤの持っていた弓を床に置くと顔を近づけた。唇と唇が触れる。
チェロの音色ではない、アヤの心は激しい旋律を奏でていた。
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