第1章 レッスン

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アヤは指を動かすのが日課になっていた。いや、癖になっていたと言ったほうが正しい。左手の指は弦に触れているかのように頭のメロディとともに動き、右手は弓の動き。人から見たら右手は握りこぶしを左右に振っているとしか見えない。ビブラートはさすがに空中ではかけることができなかったが、デスクに指を乗せている時などは左指が震えていることがあった。どちらにしても頭にはいつもメロディがあった。いつもの低音で。五線譜は弾け、伴奏に似た胸に響く音だった。 レッスンを終え、アヤは自宅に戻る為に電車に揺られていた。 「明日は学校が終わったらレイコとアキでスイーツを食べに行こう」そんなことを考えていた。電車は耳に違和感を与える音とともにホームに止まり、人ごみの中、駅の階段を降りた。すると改札口付近に警官が大勢集まっている。救急隊の人も何人か見えた。人だかりが出来ている。人が一人倒れているようだった。人ごみの間からうつぶせで倒れている老人の姿が見える。よく見るとその人の手にはハーモニカがしっかりと握られていた。アヤは思い出す。二、三度、青葉台の駅で見かけたことがある老人。ダンボールに腰を下ろし、ボロボロの重ね着の服を着ていた。グレーの頭髪は干からびたまま左右に揺れ、いつもハーモニカを吹いていたと思う。 ホームレスだと知りながらも人々はその音色に足を止めていた…そう微かな記憶が蘇る。 救急隊員がその老人を担架で運び始めた。アヤは改札を出るとその人だかりを避けるように早足でバス停へ向かった。 バスは道の両側の木々達に挨拶をするかのようにのんびりと走っていった。
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