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彼のピアノは全ての魂を虜にするだろう、優しく透明な音。私は大人になった彼のコンサートに 何度か行った。演奏中、涙は止まらず、手に握っていた筈のハンカチは消えていた。
嫌い。 俊介は嫌いだ。
コンサートの帰り、私達は横浜の赤レンガ倉庫にいた。 潮風は意地悪で、私の長い髪が 彼の口に入った。
「返事、聞かせてくれないか」
「あなたとは結婚できない」
「何故?僕はずっと加奈を愛してきた」
両親が反対したことを私は持ち出し、彼からのプロポーズを断った。本心は違う。彼を一度も愛 したことなんてない。いつも妬ましく感じていただけだったような気がする。
「僕は足が悪い。だけど、きっと君を幸せにしてみせるから」
それがプロポーズを断る本当の理由。その言葉に今までの妬みが凝縮され、憎しみに変わった瞬間だった。
「あなたは何故そんなに自信があるの?小さい頃からずっとそうだったじゃない。いつも笑っていて何がそんなに楽しいの、俊介が嫌いだった。ずっと嫌いだったのよ」
彼は何も言わなかった。
何一つ不自由の無い暮らしをしてきた私に、俊介は愛しているという。その気持ちは繊細で、真実だ。彼の半径一メートル以内は全て真実で、嘘がない。だが、幸せにするという言葉を胸に秘めていただけではなく、言葉として音声として私の耳に届いたというその事実が、どうしても許せなかった。
辺りは薄暗く、彼はしばらくその場に座り込んでいた。杖を持ち上げる元気も無い程にうつむいていた。彼の心情はわかり易くて、その表情を見ていることも耐えられなかった。一緒にお祭りに行ってずっと盆踊りを見ながら手を繋いでいたこと、小学校を二人で抜け出して仔犬に餌をあげて叱られたこと、写生大会で彼は風景を描かずに私を描いてしまったこと。雨が降っていた夜にずぶ濡れになりながら初めてキスしたこと。夜景の綺麗なホテルで彼の体温を感じた日。
何もかも、忘れる。
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