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私はその場に彼を残し、振り向かずに走った。なるべく足を持ち上げ、飛び跳ねるように、私は彼に自分の足を見せつけた。それが精一杯の彼への復讐だった。
私が悪魔にとりつかれたのは、俊介の心が綺麗すぎたからだ。
辺りは薄暗く、海の風が心に空いた穴を一層深く冷たくしていた。これ以上優しさに触れることは、透明な水を飲み込むことは避けなければいけない。私は泣いてはいけない。一人では立っていられなくなってしまう。
深く心に誓った。
「神はいつも君を見ているんだよ、だから私は君を叱ったりしない」
神父様の声が潮風と一緒に聞こえた気がした。
「天使は悪魔に汚されてはいけない」
「悪魔は天使を汚してはいけない」
四年前、私は親の勧めで、ある一流企業の男性と結婚した。誰もが羨む美男子だと評判の男だった。私は彼のことが一目で気に入った。
「私と同じ目をしている」
そう感じたのが結婚を決めた理由だった。
「俺にお弁当を毎日作ってくれるよね?君はいい女だからな」
結婚前、彼はいつもそう言った。次第に私は彼の一人暮らしの部屋に上がりこみ、ワイシャツにアイロンをかけ、掃除をし、洗濯をし、夕食をつくるまでになった。夜はベッドの中でどんな体位でもどんな言葉でも彼の思い通りに、彼の喜ぶようにすることを心がけた。
「泣けばいい、叫べばいい」
「誰も助けは来ないさ」
一目見たときから私は夫を理解した。
「外に出る勇気がこの女にはない」
夫は初め、私をそういう目で見た。自分の思い通りに操れると判断したに違いない。幾人の女性と付き合ってきたか、今現在どれだけの女と付き合っているのか、それは私には関係のないことだった。むしろ彼の心には差し込むべき穴がない錆付いた鍵がいくつもあるのが手に取るように分かった。そのことが嬉しくてたまらなかった。
「俺には女を見る目があるのさ、経験豊富なんだよ、おまえと違って」
都合のいい女。料理の上手な女。掃除の得意な女。文句の言えない、外に出ることさえできない女。そして誰もが羨む美人。
自分を正当化するに必要な妻はそんな女でなくてはならない。夫はそう思っている。
私を見つけた瞬間はさぞかし嬉しかっただろう。
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