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朝食を終えた後、インターホンの音が鳴った。
「慶介兄ちゃんかな?」
「そうかもしれないわ」
和子さんは急いでドアを開けると「待ってたのよ」と言い、私の目の前で兄とキスを交わした。和子さんの白い腕が兄の首元に巻かれ、狭い玄関で繰り広げられるその光景は外国映画のワンシーンを見ているようで、その場所だけがセピア色に変化した気がした。兄はこれ以上ない笑顔を見せていた。
中学生の頃に両親は交通事故で亡くなっている。そのショックからか、私は一時言語障碍を煩ったことがあった。どもりは酷くなる一方で、人との会話がままならなくなった。だが、高校へ進学した頃には回復し、普通に人と話せるようになった……いや、普通という表現は間違っているのかもしれない。頭には言葉が浮かぶものの、口からは私自身の言葉ではなく、人の心を揺さぶることの無い、魂の無い、ありきたりな言葉しか出ることはなかった。それは社交辞令のようなもので、私自身の言葉とは程遠いものがほとんどだった。それが二十八歳になるこの歳まで続いている。ただ、生きること、人を愛することに怯えて(それは怯えているのか、恐怖を抱いているのか、諦めに似た思いなのかは未だに分からないが)しまうことだけは治らなかった。まだ一度も誰かを好きになったこともなかったし、もちろん、お付き合いしたこともない。異性の友達はおろか、同性の友達さえいなかった。仲良くなればなるほど相手傷つけまいと考えてしまうかに思え、笑顔を向ける以外は想ったことを口に出すことにさえ恐怖を抱いていた。大好きだった父と母のように突然私の前から消えてしまうのではと、そう思うだけで胸が締め付けられる思いがした。辛い思いをするならば初めから人を好きになる必要はない。そして、これ以上傷つきたくはない……同時に誰かを傷つけたくはない……そう自分の胸に言い聞かせた。
そんな私をみかねてか、祖父母は私に犬を飼わないかと言ったことがある。ペットショップまでは足を運んだが、彼らの目を見ただけで私は足がすくんでしまった。あんな愛しい目で見られたら、一生彼らとの別れに恐怖を抱いて過ごさなくてはならない。
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