1 病院

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 一人だけだが子を成した仲の夫。  けれども、わたしは愛していない。  生涯、唯一度も……  結婚生活に男女の愛は不要なのだ。  代わりに、夫がわたしに向けた愛情を尊いもの、と信じて暮らす。  日常に埋もれてしまえば気にもならない。  些細なことを除けば、夫に対する不満もない。  気になる癖、慣れぬ性格も年の積み重ねが慣れさせる。  その意味では夫はわたしの一部なのだ。  が、それも家にあってのことか。  わたしの心は三十年間、別の男に捧げられる。  嘗て自分を振った男、尾瀬康裕から離れない。  今でも目の裏に浮かぶミクロネシアでの熱い抱擁。  鰹の回遊する水族館での別れ話。  幸福と不幸、絶頂と最悪が、わたしの中で錯綜する。  夫はずいぶん昔に、わたしの心中に気づいた、と言う。  不用心に仕舞ったわたしの日記帖から知った、と告白する。  夫が知るわたしと、それ以前のわたしとの差に夫は漠然としたに違いない。  が、それもわたし。  その後すべてを諦め、辰巳悟史との結婚生活を決意したのもわたし。  自分の性格は変わらないだろう。  だからあの事故のような尾瀬との再会がなければ、わたしたち夫婦は見た目幸せに老いさらばえ、それぞれに死んだはず。  夫も自分の不安を心の外に弾き出すことなく死ねたのだ。  辰巳悟史がわたしを愛していたのは間違いない。  だから、わたしもでき得る限り忠実な妻を演じ続け……。  積年のうちに演じているとさえ思えぬほどに……  尾瀬の妻、佳代子の奇妙な計画に乗せられ尾瀬と再会しなかったならば、わたしは夫との生活に疑問を感じることなく過ごせたはず。  が、一度尾瀬と再会し、情が通えば、それまでのこと。  そんなに単純なことだったのだ。  老人だろうが、恋に分別はない。  老いらくの恋という言葉もある。  そう思うと、ああ、胸が痛い。  ……。  不意に目が覚める。  自分では眠ったつもりはないが、眠っていたらしい。  僅かに痙攣する瞼をゆっくりと開けば顔がある。  二つ……。  一つは娘、美緒の顔。  そして、もう一つは……。 「よく、この場所がわかりましたね」  声のない声でわたしが問うと、 「瑠衣子さん、良かった無事で……」  尾瀬康裕の口が言う。
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