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一人だけだが子を成した仲の夫。
けれども、わたしは愛していない。
生涯、唯一度も……
結婚生活に男女の愛は不要なのだ。
代わりに、夫がわたしに向けた愛情を尊いもの、と信じて暮らす。
日常に埋もれてしまえば気にもならない。
些細なことを除けば、夫に対する不満もない。
気になる癖、慣れぬ性格も年の積み重ねが慣れさせる。
その意味では夫はわたしの一部なのだ。
が、それも家にあってのことか。
わたしの心は三十年間、別の男に捧げられる。
嘗て自分を振った男、尾瀬康裕から離れない。
今でも目の裏に浮かぶミクロネシアでの熱い抱擁。
鰹の回遊する水族館での別れ話。
幸福と不幸、絶頂と最悪が、わたしの中で錯綜する。
夫はずいぶん昔に、わたしの心中に気づいた、と言う。
不用心に仕舞ったわたしの日記帖から知った、と告白する。
夫が知るわたしと、それ以前のわたしとの差に夫は漠然としたに違いない。
が、それもわたし。
その後すべてを諦め、辰巳悟史との結婚生活を決意したのもわたし。
自分の性格は変わらないだろう。
だからあの事故のような尾瀬との再会がなければ、わたしたち夫婦は見た目幸せに老いさらばえ、それぞれに死んだはず。
夫も自分の不安を心の外に弾き出すことなく死ねたのだ。
辰巳悟史がわたしを愛していたのは間違いない。
だから、わたしもでき得る限り忠実な妻を演じ続け……。
積年のうちに演じているとさえ思えぬほどに……
尾瀬の妻、佳代子の奇妙な計画に乗せられ尾瀬と再会しなかったならば、わたしは夫との生活に疑問を感じることなく過ごせたはず。
が、一度尾瀬と再会し、情が通えば、それまでのこと。
そんなに単純なことだったのだ。
老人だろうが、恋に分別はない。
老いらくの恋という言葉もある。
そう思うと、ああ、胸が痛い。
……。
不意に目が覚める。
自分では眠ったつもりはないが、眠っていたらしい。
僅かに痙攣する瞼をゆっくりと開けば顔がある。
二つ……。
一つは娘、美緒の顔。
そして、もう一つは……。
「よく、この場所がわかりましたね」
声のない声でわたしが問うと、
「瑠衣子さん、良かった無事で……」
尾瀬康裕の口が言う。
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