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「だからきみも忘れないで。私の事も、私との時間も」
「……忘れるわけ、ないだろ」
感情の昂りに彼の声が震える。ダメだよ。泣いたりしたら。お別れなんかじゃないんだから。そう言う私も涙と嗚咽を堪え切れてはいなかった。
「咲。俺、もうダメだ。もうすぐ、俺もあいつらみたいになっちまう」
「いいよ、別に。きみの傍にいれたらそれでいい。それに、もう逃げるとこもないし」
がんがんと、先ほどから屋上の鉄扉を叩く乱暴な音が聞こえている。彼に文字通り喰らいついた”あいつら”がすぐそこまで迫っていた。二人でつくった机や椅子のバリケードもそう長くは持たないだろう。
唯一の通用口を自ら塞いでおいて他に逃げ場などありはしない。あいつらから逃げるという意味でなら手すりを乗り越え真っ逆さまに飛び降りる手もあるにはある。けれどどうせ死ぬのなら、変わり果ててしまっても、愛する人に食べられて死にたい。そんな風に思うことはおかしいことだろうか。いや、間違っていない。ただ、それはすごく残酷な願いだ。
「咲……なら、俺を殺してくれ。そこから落としてくれれば、いい、から」
涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにして彼はいう。そんなこと、できる筈がない。私は答えるかわりにゆっくりと身を起こすと、血で濡れた手のひらをペロリと舐めてそのまま彼の唇を強引に奪った。
ぬらぬらとした血の味。最初のうちは弱々しく抵抗していた彼だったが、ようやく諦めたのか私の頭に手を回してその舌を絡めてくる。ぎこちなく、拙く幼いキスだったが、気持ちを通じ合わせるにはそれだけで十分だった。
「これで……私も行き着く先は一緒だよ」
唾液による感染。まるで不出来なゾンビ映画のようだ。けれどこれはエンターテイメントなんてものではない。世界を救うヒーローも、囚われのお姫様も存在しない。あるのは蔓延する死のみだ。
「ごめん……ホント、ごめん」
謝らなきゃいけないのは私の方なのに。彼の泣き顔を、私もくしゃくしゃの酷い顔でまっすぐ見る。先細りの未来を、私達は待つしかなかった。
私は彼の胸に顔を埋めて瞼を閉じる。彼は私の腰に片手を回して空いた手のひらで髪を撫でる。彼が好きだと言ったセミロングの黒い髪。照れて変態なんて言ってしまったけれど、本当はすごく嬉しかった。
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