12人が本棚に入れています
本棚に追加
「サキ? ど、こ?」
とうとうその時が来てしまったのか、髪を撫でていた手が止まり、心細げな声を彼が出した。もう身体の感覚もないようだ。
「大丈夫。いるよ。ここ。わかる?」
彼の耳元で囁き右手を自分の頬にあてがう。顔が鉄臭い液で濡れたがそんなことは気にならない。怯えと不安に歪んだ表情が和らぎ、安堵の吐息が漏れる。
子供っぽくてだけど優しくて、ちょっとイタズラ好きな私の愛しい人。うっすらと目を開いて、私の顔を見る。
「咲……笑って」
彼の最後のリクエスト。ちゃんと応えられるだろうか。口角をあげて、眉間の力を抜いて、涙を堪えて。
「こう?」
唇が震えて上手に笑えない。どうしても眉が下がって上手に笑えない。涙が零れる。私は上手に笑えない。
彼はそんな私を見て穏やかに笑う。涙こそ流れていたけれど、それはいつもの彼のやさしい笑顔だ。
「また……どこ、かで……会おう、な」
「うん。絶対……絶対に会いに行く」
安っぽいメロドラマと人は笑うかもしれない。でもここにいるのはもう私と彼の二人だけ。辛すぎるくらい感傷的で、胸焼けしそうなほど甘い三文芝居。朝焼けが私達を赤く染めていく。
彼は最後にもう一度だけ微笑むと、私にありがとうと言って静かに瞼を閉じた。安らかとまでは言えないまでも、その微笑の暖かさに私の心は救われる。
頬に添えられた右手がずるりと下がり、コンクリートの床にどたっと落ちて沈黙した。
最初のコメントを投稿しよう!