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追いかけてくる声を振り切るようにして、一之瀬くんは私をカラオケボックスから連れ出した。
繋いだ手は痺れるように熱く、あの頃の体温の低い指先とは違った。
「い……一之瀬くん。皆びっくりし」
「お前、戻りたいの?」
振り返らず放たれた言葉は、胸を刺しぬくように鋭い。
感情にあふれた一之瀬くんの声が耳の奥で騒いで、私は耐えきれず言った。
「2人が、……いい」
ほんの数回来たことのある一之瀬くんの部屋は整理整頓されてほとんど物がない。
部屋のドアを閉めた一之瀬くんは、玄関からもってきた私の靴をその場に放りなげた。
そして私が一之瀬くんに手を伸ばすよりも早く、体当たりするように私を抱きしめた。勢いにのまれてメガネが床に落ちた。危うくバランスを崩しそうになったのを踏みとどまる。
夏の残滓をまとった部屋の温度に、制服の上から触れあう部分に汗がにじむ。
じわじわとシミを広げていく。
セミの最後の声が聴こえる。
このまま時間が止まればいい。
最初から言葉のない世界でしか出会えなかったのなら、体に気持ちを託しても伝えたかった。
背中に回した腕に力をこめると、一之瀬くんが小さく呻いた。
一之瀬くんが泣いていると気づいたのは、頬に落ちてきた滴のしょっぱさに気持ちが追いついてからだった。
気づくと、私の目からも透明なものがこぼれていた。
最初から言葉なんてなかった。
世界も、自分さえもなかった。
あるのは2人の空白の体だけで、でも息をすることはできた。
おそるおそるお互いの居場所を探るように手を繋いだ。
本当は私も一之瀬くんもずっと同じ空を見上げて、溺れかけた金魚のように喘ぎ続けてきた。
その唇を、空気をを分け合うように、初めて重ねた。
渇きをとかすような不器用さが愛しかった。
夕闇が夏の終わりを引き連れて、小さく子どものような笑い声をあげながら去る足音がする。
夏の底で2人、ようやく見つけた言葉の先。
こんなに自由に泳げる隣を、私は他に知らない。
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