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その頃の一之瀬くんが私をどのくらい知っていたかは知らない。でも私はよく知っていた。生徒会副会長で人望も厚い。スポーツ万能で頭もいい。非の打ち所がないような完璧男子。
その彼が、ネコに悪戯をしていた。
「なんで……」
これまで怪我したというネコも一之瀬くんがやったのか?
彼のような人間がどうしてネコに悪戯したのか?
何が、どうして、こうなったのか。増える疑問は2人だけの空間を黒く塗りつぶして、これまでの印象なんて無意味な断片にすぎなくなっていた。
「どうして、って?」
しぼりだされたような彼の声はひどく乾いていた。
一之瀬くんの片腕はネコにひっかかれて長く深い傷を負っている。その傷口は赤い血を音もなく流していて、一之瀬くんが同じ人間だということがひどく新鮮だった。いつもは遠い存在で、霧の向こうの世界の人が突然世界を破って出てきたような強烈な感覚に面食らった。
でもそれはきっと私だけの気分みたいなもので、世界にはこれっぽっちも風穴はあいていなくて、見かけは何も変わらない。
「怪我、してる……。こっち、来て」
一瞬戸惑った表情で一之瀬くんが私を見た。その視線の奥はひどく淋しげで、繊細なガラスがいくつも傷をつけられているように揺れていた。
このままではいけない。
何がいけないのかも分からず、ふいにわき起こった感情は名付けようもないほどに胸を震わせた。
何も言わずに近くの自宅へ連れていった。
誰もいない平屋の借家は、窓を閉め切られたまま昼間の熱気をそこかしこに残して地の底に佇んでいた。
「親は……」
黙ったままついてきた一之瀬くんは、その言葉を発したきり再び黙り込んだ。
救急箱を探して、マキロンとガーゼと包帯をとりだす。ソファに座らせて、手当をしていく間も、一之瀬くんはしみたはずなのに一言もしゃべらなかった。
包帯を巻き始めた時も、一之瀬くんはどんな生物の間にもないほどの隔絶感を横たわらせていた。
傷口の他はなにも一之瀬くんでないような。
一之瀬くんなんて誰でもない。これまでもこれからも私の世界と交わらない。
ただこの傷口を除いては。
だから丁寧に、愛しむように手当をした。
今までにないくらい切実に他人の傷口を労った。
包帯を巻き終わった時、ホッとしたのは傷口を通じて彼を少しでも理解できた気がしたからかもしれない。
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