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思い返してみても、あの時の僕は異常だったと思う。まるで熱に浮かされた案山子だった。少女が僕にとって不可解な生物となってもなお、僕は彼女の隣に一時間ほど立ち尽くしていたのだから。
あたりはとっくに夜の帳が降りて、冷えた大気が空から落ちてくる。少女も僕も一言も話さずに、既に暗い闇を抱えた水面を見続けているだけだった。
隣に立っている筈の少女は相変わらず人形のようだった。何の力みもなくピンと伸びた姿勢も、ガラスのような表情も崩れることがない。もしかしたら、僕が隣にいることさえ忘れていたのかもしれない。だけど、僕は自分からこの場を離れるつもりは無かった。胸に秘めた想いはたった一つ。今別れたら、二度と少女は会えない、そんな確信だけだった。
「猫……帰ってこないわね」
少女から溢れた言葉。静かな水面に向かって落ちた、たった一つの滴。見逃さないよう、取り逃さないよう、僕は静かにその声を引き取った。
「そうだね。……もう少し待ってみるよ」
もしかしたら、少女は言外に『帰れ』と伝えてきたのかもしれない。しかし、残念ながらその意図には気づかないふりをした。僕は段ボールの横に静かに腰を下ろした。気持ちを上手く言葉に出来ないから、帰らない意思を、どうにか態度で示したのだ。草の上とはいえ、冬の寒気にさらされた地面は冷たい。背筋に這い上がる悪寒を無視して、僕は夜空を見上げた。
冷たい大気は澄んでいて、下弦の月と小さな星々が瞬いている、自分好みの夜空だった。騒がしくなく、どこかさみしい。
隣に、温かい気配を感じた。驚いたことに、少女も僕にならって腰を下ろしていた。何故か立っていたときよりも距離が縮まっている。僕は身じろぎすることさえ出来ず、夜空に向けたままの視線を固定していた。隣で、少女がどんな表情をしているのか解らない。ただ、夜の静寂の中で唯一聞こえてくるのが、規則正しい小さな吐息だった。
自分の頬が少し火照っているのを自覚していた。体中の血液が重力に逆らって、上を目指して流れているみたいだ。
―――だけど、こんな温かい気持ちはとても脆くて、脳裏に子猫が駆け抜けた瞬間に、嘘みたいに心が冷えた。後に残ったのは凝り固まった罪悪感だけ。この場に留まる理由すら、僕の心で汚れていた。
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