第1章

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 どちらにせよ彼女はハードルは高いが手の届くところにいる。もっともそれは彼女を雲の上の存在と思っていた頃と変化はないのかもしれない。刈谷は会いに行ったことはない。ーー家族と友人がたまに会いに行っていることは知っていたから。 「さて相変わらず、事務的なような、詩的なような」  文字を並ばせても常人ではない。常人に心底あこがれた彼女らしい。  休日に刈谷は筆を走らせることが増えたーー美月とは月一の手紙のやりとりでつながっている。彼女の住所には手紙は届かないが、近場の郵便局に留めてもらっているのを耳栓をして受け取っているらしい。  便せんはシンプルなものだった。かっちりした文字に不安定な文面、けれど彼女は全てを捨てることはなかった。今のところは。ほとんどは捨てたが彼女が理解されないと怯えていた親しい人々は彼女の行動に驚愕し、すぐ山奥まで追いかけてきた。ーーそれを聞いて「ああやっぱり止めて良かったなあ」と旅行鞄をしまった。 「まあ親御さんを泣かせなくてすんだって事なのかな、彼女の友達も」  わあわあ泣いて奥地を訪ねたに違いないが、そんな事を自己満足で思う。手紙の向こうでは彼女が計画的に自給自足の生活と巨額の富を雀の涙ほどきり崩している様に苦笑してしまう。折角なので豪邸でも建ててドーベルマンを飼えばいい気もするけれど、まあ彼女らしい。 「ただ俺が行くと音楽の話とかぽろりとしちまいそうなんだよな」  あの夜叉のように美しい女性がどんな隠遁生活を送っているのか、この目で見たい願望はある。でもあの会話以来思った以上に刈谷が自分が音楽を愛していると思い知った。骨の髄まで音のコントラストと人の悲喜の相関性が愛おしい。 「だから一人寂しくしてないなら、会いに行く必要なんてないさ。彼女と俺はほとんど他人だし」  けれどーー同時に思う、あんなに人を真剣に説得したのは初めてだった。彼女が美しかったから? 哀れだったから? 違うーー結局刈谷は愛する音楽が人を不幸にする姿を見たくなかった。毎日毎週毎年、振り向いてほしい、聞いてほしい、これを感じてほしい、理解してほしい、そう思って音楽の仕事をしてきた。それがあんなに人を不幸にするなんて認めるわけにはいかない。  まあ山奥に引っ込むほどなんだから幸せとはいかないだろうが、最悪の事態は避けられた。 「音楽で不幸になんて、俺の目の前ではいやなんだ」
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