第一章

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 緑色に包まれた、沢山の樹。  ついひと月前までその花を愉しむために地元の人間だけではなく観光客までもがひしめいていた記憶があるのに、今はもうその姿をカメラに収められることもなく、こうして日曜という世間一般の休日に訪れる数組の親子連れを見下ろすだけの存在になっている。    勿体ない。  一度目を伏せてから、改めてそれを見つめる。 「ほとんど誰も見てないなー。綺麗なのに……」  日に日に厳しくなってきた陽射しを遮断してくれている大きな樹を仰ぎ見ながら、椎名千紘は呟いた。 「何を?てか聞けって人の話」  目の前のベンチに座る男が一瞬千紘の話に気をとられかけたものの、持ち直したように改める。自分の隣を手で指し示したところから「隣に座れ」ということなのだろう。  しかし千紘はそれには従わず、視線だけ男に向けた。 「せっかくの休みなのにそんな辛気くさい顔でいられたら聞く気なんておきないよ。しかもよりによって真っ昼間、賑やかで愉しそうな家族たちが集う憩いの場で」 「話があるっつったら外にしてくれっつったのはお前だろ?」  語気から滲み出てくる苛立ちを隠そうともしない男にうんざりする。それを無視して頭上から落ちてくる緑に手をかざしながら、世間話をするように続けた。 「たらたら前置きしてるけど、結論としては私と別れたいってことでしょ。いいよ別れよ。はい、おしまい」  それまでせわしなく動いていた男の貧乏ゆすりが、止まる。  形のいい少し太めの眉が歪み、眉間に皺が寄った。何か言おうとしているのか唇もわなないている。しかしうまく言葉にならないのか、酸素の足らない魚のように口をパクパクさせたままだ。  その様子を見ながら、すっと胸が冷えていくのを感じた。    同じだ、と思う。  自分から別れを告げようとしておいて、こちらから先に切り出すと言葉を失う。  しかも、「嫌だ」「別れたくない」といった引き止める類の台詞を言われることを前提としているらしいところまで、何もかもが過去の恋愛と同じだった。女はみんな男にすがりつくとでも思っているのだろうか。
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