イリス

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カーテンから届く日差しはあっという間に強くなり、部屋の隅々にまで届いていた。 「イリス、傘持ってった方がいい?」 出勤の支度を終えてウォッチに話しかける。ウォッチはユーザーごとに呼びかけの名前を決め、初めて起動する時に登録するようになっていた。 『今日はだいじょうぶです。』 スマートフォンに人口知能が搭載され、2016年には機械的なしゃべり方も解消され、2020年には本当に人と話しているような滑らかな音声になっていた。 『そろそろ出勤の時間です。』 「わかったよ、ありがとう」 時として、僕みたいな独身サラリーマンにはいい話し相手になる。時には母親みたいに、時には恋人みたいにもなる。いや、なるんじゃなくて、そんな感覚になってしまう。 僕は耳にイヤホンを差し込み、鞄を手にして玄関へと向かう。 『本体を忘れていますよ?』とイヤホンから声が聞こえ、ウォッチをしていないことに気づく。 「あぁ、ごめんごめん」 テーブルに起きっぱなしのウォッチを手に取り、高層マンションの廊下に出ると背中からかすかな電子音が聞こえ、『施錠が完了しました。』とイリスが言った。 エレベーターホールへ向かうと、すでにエレベーターがこの階に向かっているのが見える。ドアの前に着くと同時にドアが開く。 すでに行き先が表示されていた。いつもとは違う地下4階が点灯している。 「あぁ、今日は客先への挨拶からか」 『はい、ですのでS8乗り場から西町タワー行きとなります。』 「ありがとう」 イリスの声はウォッチから飛ばされ、イヤホンから聞こえる。イヤホンは僕の脳から"考え"を拾ってウォッチに送る。それだけじゃない、時には人間同士もウォッチを使い、無言で会話をする。 それは昔、メールやLINEなどで物理的なキーボードから文字を打ち込んで会話をしていたのと変わりはない。方法が変わっただけだ。文字を打たなくなっただけのことなんだ。 でもガラス張りのエレベーターから見える町並みは、じいちゃんが見せてくれた20年前の町並みの画像とさほど変わらない。朝はカラスがゴミを漁り(これは絶命危惧種になりそうだったカラスの保護のために行われているらしい)、町内会の花壇に散水されているシャワーに虹が出来ている。 スーパーの裏手では配送のトラックが荷を下ろしていて、運転手はそれを眺めている。昔は運転手が荷物を下ろしていたらしいけど…。 エレベーターが減速を始める。 『それでは今日も頑張りましょう。』 ドアが開く。昨日とさほど変わらない、でもどこか違う一日が始まる。
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