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「いい店だっただろう?」
「そうね」
佳世子はあからさまに不機嫌だった。
「どうかした?」
「大森さんって子と、ずいぶん仲がいいのね」
「前の居酒屋からの店員さんなんだ。馴染(なじ)みなんだよ」
「へえ」
佳世子は冷たい眼で修治を見ている。
「初耳。あの子がお目当てで通っていたの?」
*
一年後。
修治は、学生のころから住んでいた1DKの木造アパートを引き払った。佳世子との結婚が決まったのだ。
「何年住んだかね」
がらんとした部屋を見まわしながら、大家のおじさんが訊いた。
「七年、いや、八年ですかね」
明日から、2JDKの新築マンションで、佳世子との生活がはじまるのだ。
ふと、あの店のことが頭をよぎった。
佳世子に疑われたせいもあって、あれから一度か二度しか顔を出していない。これからはもっと行かなくなるだろう。ひょっとしたら、大森さんには、ふたたび会うこともないかもしれない。
胸の奥がかすかにうずいた。
最後にもう一回、店に寄ろう。
「都合により本日は休ませていただきます。点点」
貼り紙を見て、修治はがっかりした。何という間の悪さだろう。だが、仕方がない。わざわざさよならをいうような仲でもないんだ。
(つづく)
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